私が去年あたりから、もっとも信頼を寄せているネットメディア『現代ビジネス』が、またまた『「東大合格が人生のピークでした」…世間が知らない東大格差の実態』なるタイトルの、なかなかに面白い記事を配信していた。
かいつまめば、たとえば「私は東大に合格した時が人生のピークでした。今でもあの瞬間に戻りたいと思ってしまいます」と語る東京大学法学部卒の30歳の男性──中国地方の県立高校から東大に入学し、小さいころは「神童」とも呼ばれていた彼は、
クラスメイトとなった麻布・開成・筑駒など都内の超一流校出身のグループと交わり、そのコミュケーション能力の高さや、遊び方も知っていてスポーツも得意…といった要領の良さに、「自分はしょせん凡人に過ぎない」と思い知らされ、事あるごとに身の程をわきまえ(過ぎ)てしまう「東大までの人」となってしまい、在学中に身につけた「コンプレックスから逃れるラクな生き方」を就職活動にも活かしながら、一般社会に溶け込んでいった。
……らしい。結局は「東大卒」が飲みの席や仕事上の雑談などでのネタとしてしか使えなくなってしまったわけだが、いっぽうで東大にはもちろん“本物の天才”、すなわち東大を単なるステップアップの踏み台としてしか見ていない「東大からの人」も多く実在するという。つまり、
「どんな集団でも相対的に落ちこぼれる劣等生は必ず生まれるもので、そこを勝ち抜いてきたエリートばかりを束ねた集団にも、必ず落ちこぼれる劣等生が生まれ、そこから選りすぐられたエリート中のエリートばかりを束ねた集団にも、また新たな劣等生が生まれる」
……といった理屈である。中学時代に卓越した能力を発揮していた野球少年が、大坂桐蔭や横浜高校あたりの野球名門校でベンチ入りもできない補欠選手へと……そこからドラフトでプロ入りしたエリート中のエリート集団も、大半は2軍生活に甘んじたまま引退してしまう……のと同じような話だろう。
東大やプロ野球の世界以外でも、こういった“比較選別”には誰しもが少なからず悩まされているのではなかろうか。原則として、集団とは大人になればなるほど“能力の優劣”が拮抗する傾向が強く、だからこそ集団に所属する以上、無理やりにでも“ライバル”との優劣を明確化する作業が、いわば自身のアイデンティティを死守することにもなる。「俺は他の同期よりも出世している!」のならばそれで良し。仮に、出世コースから外れてしまえば、他の集団に比較対象を見いだし、「俺の会社は他の同性代のサラリーマンより給料が高い」……みたいな具合に。
でも、そんな自己満足に日々を疲弊していくのって……しんどくないですか? 私はぶっちゃけ、しんどい。しんどいから私は、フリーランスの身でありながらも、もはや死語となりつつある「窓際族」なるスタンスを今、貫こうと心がけている。先輩・後輩を問わない集団内にいる同僚らの役職や、評価の目から一切解き放たれ、窓際で空気のごとくただよい、就業時間を事なかれに終える透明感──その仙人にも似た達観の境地は、個人主義がようやく浸透しはじめてきた、ここ日本において、もっとポジティブに見直されるべきライフスタイルではないか、と私は真剣に考える。そして、「窓際族」をまっとうするのに、なによりも重要なのは悪目立ちしないこと。悪目立ちしてしまいリストラの対象にならないくらいに、最低限の仕事はそつなくこなしておくべき──私だったら、炎上しない程度に“現役”をアピールするため、定期的に突っ込みどころを与えない暖簾に腕押しな原稿を世に……ではなくクライアント様に向けて発信し続けるということだ。