生活困窮者の支援現場に立つ社会福祉士・藤田孝典氏の著書『日本ではなぜ子育てがこんなにつらいのか――カネと自己責任の資本論』は、教育や子育てにかかる過酷な負担と、すべてを自己責任として背負わされる社会構造の歪みを鋭く突く。
本書から一部を抜粋し、高校授業料の実質無償化の裏で激化する「塾代・受験課金ゲーム」の実態と、親の資金力が子どもの未来を左右し続ける構造的な問題を検証する。
高校無償化で広がる進路の選択肢
高校の授業料無償化も着々と進められてきた。すでに日本の高校進学率は約98.7%(2023年度)に及び、非常に高い水準で推移している。中学校卒業後は特別な事情がない限り、ほぼ全員が高校へ進学する「全入時代」となっている。それゆえに高校の教育もすべての人に関わる基礎的なサービスだ。こちらも給食費同様に議論が深まり、高校の授業料無償化が始まっている。まず2025年度から公立高校で先駆けて、所得制限なしの実質無償化が実現した。さらに、公立高校だけでなく、2026年度からは私立高校でも所得制限が撤廃され、支給上限額も引き上げられ、実質無償化が進んでいく。
2025年度からは所得制限なく全世帯が年額11万8800円(公立高校授業料相当額)の支援を受け、2026年度からは私立高校の支給上限額が年額45万7000円に増額され、授業料が全額無償となる世帯が増えた。
もちろん、高校生になれば、制服や部活動の費用、交通費、携帯電話の通信費など、学費に限らず様々な名目で費用が必要となってくる。せめて高校授業料くらい無償化するのは当然であり、本政策の導入は遅すぎるくらいだと言ってもいい。
高校時代、私の両親は夫婦共働きであった。父親は一部上場企業の従業員であり平均以上の所得を得ていたはずだが、給与や賞与は子どもたち(三人兄妹)の学費と住宅ローンで「金が右から左だ」ということをよく笑いながら話していた。
「学費のことなんて考えなくていいから自分が行きたい高校を選びなさい」という父親の言葉を真に受けて、経済的理由を配慮することなく、自宅から交通費もそれなりにかかる私立高校へ通わせてもらったことは今でも感謝している。
私の高校時代は「金がなければ公立、金があれば私立」というあからさまな進学差別が生じやすいものだった。それを思い返せば、現代の子育て世帯が過去の私の両親のように過度に苦労を経験したり、他世帯のように子どもが希望しても経済的理由で進学を許可してあげられない環境が生まれないよう整備されることが望ましい。
授業料ゼロでも残る教育格差
しかしながら、教育の無償化をめぐる議論は、義務教育の出口である高校進学において、最も先鋭的な矛盾を露呈している。東京都や大阪府をはじめとする都市部を中心として、所得制限を撤廃した「高校授業料の実質無償化」の波が全国の自治体へと急速に広がっている。公立のみならず、私立高校の授業料までもが実質的に公費でカバーされるようになったこの現状は、一見すると親の経済格差が子どもの進路選択を狭めない「脱商品化」の決定打のように映る。しかし、この政策がもたらしている実態は、教育の商品化を弱めるどころか、むしろ「市場における教育の選別機能」を過激化させるという皮肉な逆説を生んでいる。
授業料がゼロになったからといって、教育が商品でなくなったわけではないという現実に、私たちは目を向けなければならない。現在の「私立も含めた無償化」は、結果として私立高校が持つ「進学実績」や「充実した設備」という名の商品価値を、より激しい競争へ放り込むことになった。
学費という経済的障壁が取り払われた結果、受験生とその親は、より「価値の高い商品(人気校)」へと一斉に殺到する。そこで行われるのは、純粋な「学力試験」という名の市場競争である。
塾代が生み出す新たな教育格差
ここに、精巧な格差を再生産するロジックが潜んでいる。授業料がいくら無償になろうとも、その前段階である塾代や習い事、家庭の文化的環境といった「目に見えない教育投資」の差は厳然として残る。それどころか、学校の授業料が浮いた分、富裕層はさらに高額な進学塾や家庭教師、早期教育という「別の教育商品」に資金を傾斜配分するようになるだろう。結果として、無償化の恩恵を最も受けて難関私立校の枠を勝ち取るのは、皮肉にも最初から経済的に恵まれていた層ではないか。
つまり、現在の高校無償化政策は、教育という「必要不可欠」な領域を市場から隔離したのではない。単に市場の「入場料(授業料)」を国や自治体が肩代わりすることで、誰もが競争に参加しているかのような錯覚を与え、その裏で進む「課金ゲーム」に教育格差の現実を見えなくしている。
真の脱商品化とは、すべての学校の質を底上げし、どこで学んでも等しく質の高い教育を受けられる「平等の地平」を保障することだ。特定のブランド校へアクセスするためのチケットを公費で配ることではない。「誰もが無料で競争に参加できる」という地獄のような公正さは、勝者には「実力で勝ち取った」という傲慢さを与え、敗者には「無償だったのに落ちた」という過酷な自己責任論を突きつける。
高校無償化という「脱商品化」の裏で、教育はより純度の高い「自己責任の商品」へと変質する。この構造に気付いて、次はどうしたら教育現場の歪みを是正できるのか、さらなる議論が必要だ。
著者:藤田 孝典(社会福祉士)
1982年生まれ。生活困窮者支援ソーシャルワーカー。社会福祉士。東京福祉大学保育児童学部専任講師。専門は現代日本の貧困問題と生活支援。反貧困ネットワーク埼玉代表。元・厚生労働省社会保障審議会特別部会委員(生活困窮者自立支援法)。『下流老人─一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新書)、『貧困世代─社会の監獄に閉じ込められた若者たち』(講談社現代新書)、『未来の再建─暮らし・仕事・社会保障のグランドデザイン』(ちくま新書、井手英策、今野晴貴との共著)他多数。
