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照屋年之監督 映画作りは「合法ドラッグ」6年ぶり長編公開中 ガレッジセール・ゴリ本業も順調


映画監督とタレントの両立を続ける照屋年之氏は、故郷・沖縄を舞台にした映画製作に心血を注いでいる。照屋氏が6年ぶりに監督した長編映画「かなさんどー」は家族の複雑な感情を描き、全国で上映開始。彼はお笑いコンビ「ガレッジセール」の一員としても知られるが、映画に対する情熱はとどまることを知らず、「映画製作は合法ドラッグ」と語る。映画監督に専念する中で、自らも出演することをやめ、より良い作品を追求している。彼はまた、石垣島での次回作に意欲を示し、人生と映画製作を通じて沖縄への貢献を続けたいと語った。

映画「かなさんどー」でメガホンを取った照屋年之監督。タレントと映画監督、どちらの顔をリクエストしようかと考える間もなく次から次へと表情の引き出しを開けて見せてくれた(撮影・中島郁夫)

故郷・沖縄にこだわり映画を作り続ける、照屋年之監督(52)6年ぶり3本目の長編「かなさんどー」の公開が2月21日から全国で始まった。今回も舞台は伊江島だが、家族だからこそ抱く複雑な感情と愛を描いた、普遍的な作風に進化を見せる。06年に短編映画製作でキャリアを始めて19年。映画作りが生活のルーティンになった一方で、今年で結成30年の「ガレッジセール」のゴリとして扮(ふん)するゴリエも再ブレーク。そんな今を率直に語った。【村上幸将】

★吉本企画きっかけ

映画監督を始めて19年で、作った映画は短編を含めると14本。なぜ、作り続けるのかと聞くと即答した。

「割に合わない。タレントの収入があるから生活できているだけで、専業だと家族を養えない。短編なんて、ほとんど日の目も浴びない。それでも、なぜやるか…やめられない“合法ドラッグ”だからですよ」

きっかけは、所属の吉本興業が100組の芸人に短編映画製作に挑戦させた「YOSHIMOTO DIRECTOR 's 100~100人が映画撮りました~」だった。主演も兼ねた初監督作「刑事ボギー」が、ショートショートフィルムフェスティバル2006で話題賞を受賞した。

「大変で2度とやらないと思った。脚本が生まれないと苦しく、現場で気持ちをぶつけ合うと胃に穴があきそう。でも編集で具体化され、作品という子供が生まれた瞬間、痛みを忘れて2人目が欲しくなる。“映画のビッグダディ”です」

企画に挑んだ100人から残った、唯一の監督と言っても過言ではない。映画は、生活の一部になった。

「空いたら一日中、ずっと脚本を書いています。何回も書き直す。趣味がなくて…ゴルフもはまらなかった。人が喜ぶものを考えるのが好きで、気付いたらパソコンを開いて次のセリフを書き始めているんです」

★演者断念演出集中

監督と出演の兼任は16年の短編「born、bone、墓音。」でやめ、同作を長編化した18年「洗骨」から、監督の名義もゴリから照屋年之に変えた。

「自分の演技を見て『俺、演技うまくないな』と限界を感じ、監督だったら使わないなと外しちゃう。演者として呼んでくれる監督には申し訳ないんですが、演出に集中したい。出るより良い作品を作りたい」

★福田氏の提案転機

「洗骨」の公開後、石垣島で新作を撮影するはずがコロナ禍で頓挫。その中「ポケットマネーを出したいんです。映画、撮ってくれませんか?」と誘われた。声の主こそ、ソニーピクチャーズで映像事業を手がけ17年にコンサルティング会社「スピーディ」を立ち上げた福田淳氏(59)だった。

「『洗骨』のファンで対談したいと…熱く語られた。撮れるんだと思ったけれど、頓挫した企画をスライドさせるのが嫌で、違う脚本を書いて良いですか? と聞いたら『どうぞ』と」

財産目当てで老社長(品川徹)と結婚したとみられた若妻が、実は余命が迫る父に亡き母の思い出を追体験させていた娘だったという、満島ひかり(39)主演の20年の短編「演じる女」に母も登場させ、厚みを加えて長編化。娘が生前の日記から父と母の秘密を知るエピソードは、15年に母が亡くなった際の実話だった。

「母の日記には、息子が恥ずかしくなるようなオヤジと出会った頃のピュアな文章が書かれていた。映画を見た人から『両親の話?』と言われ、無意識に脚本に書いているな、と。母親が呼んだのかなぁ」

★亡き両親の実話も

キャストも変え、松田るか(29)浅野忠信(51)堀内敬子(53)が家族を演じた。題材に選んだ裏には、22年の父の死もあった。

「22年にオヤジも亡くなった時、墓に並べた骨つぼに『おかあと一緒になれたね』と話しかけた。より夫婦のことを考えたんです」

娘が「助けを求めてるんだよ。何で電話、取らんかったの」と母の亡きがらを前に座り込む父を泣きながらたたくシーンは、顔のアップではなく背中から撮った。映画の命と位置付け、頭の中でカット割りしながら書く脚本の執筆段階から狙ったカットだったが、現場で1つの仕掛けをした。

「背中から見せる方が、お客さんの心が痛くなるという自分の感性でカット割りを決めた。役者にバックしか使わないと言うと気持ちが入らないかも? と思い、ウソついて保険で寄りも撮り、編集はバックしか使わないつもりでした」

★新たな挑戦ラジオ

福田氏は製作総指揮の立場になったが一切、口出しせず、2年前に完成。同氏は23年12月に旧ジャニーズ事務所のタレントが移籍したSTARTO ENTERTAINMENTの代表取締役CEOに就任し、多忙を極める中「かなさんどー」の宣伝も自ら動いた。

「『こんなにすばらしい映画は、より広げるしかない』と。アイドルの仕事も忙しいはずなのに『見てください』と、試写会にいろいろな方を呼んでくれた」

福田氏の紹介で鑑賞したニッポン放送関係者が感動し、開局70周年記念で放送する初の書き下ろしラジオドラマ「マミーロード」(3月4日午後7時)という新たな挑戦につながった。

★東京でも沖縄でも

本業のお笑いでは、95年に中学の同級生・川田広樹(52)と結成したガレッジセールが今年で30周年を迎えた。相方は昨年から故郷・沖縄に拠点を移した。

「コンビで毎月、舞台に立ちネタもやって。関東と沖縄でテレビのレギュラーもあり毎月、沖縄に帰り空いた時間に映画の話をする。メインの映画の大きな仕事は東京なので2拠点生活になるかな。今の状態を続けることが理想的」

フジテレビ系で00~06年に放送した「ワンナイR&R」で扮した「ゴリエ」が、令和に入った21年にCMで復活し再ブレーク。22年の同系「ゴリエと申します。」では、ゴリエを見て育った丸山礼(27)が娘を演じ、2月22日に都内で行われた「かなさんどー」公開記念舞台あいさつにも駆けつけ映画を鑑賞した。

「棺おけに入って死んだキャラだと思っていましたから。踊ってくださいというお仕事が何本もあるので毎日、トレーニングし、振りを忘れないよう週1回は自分の部屋で踊ります。大学生の子供から『パパのドロップキック、ヤバいね』と見せられた時は、不思議な気持ちでしたね。『ああ、そうだな』と言いながらも、子供はどういう感じで見ているんだろうと思い、どういう反応して良いか分からなかった」

★日記を動画で記録

沖縄に恩返ししたい思いから歴史、固有の文化、風土、自然を織り交ぜた劇映画にこだわって、次回作を石垣島で撮る準備を進めている。映画とともに人生を歩んでいく…その思いを静かに口にした。

「ちゃんと人間を映せば、沖縄で撮っても人を感動させ、世界に行けると『洗骨』で実感した。何十本も撮っている監督の作品を見ると、最新作になればなるほど、どう生き、人を見ているかが出ている気がする。今後、勉強していくところはありますが年を重ねるごとに人、社会を学んで生き続けるので作品は濃くなっていくはず。死ぬまでの日記を動画で記録として残しているのかも知れない」

▼「かなさんどー」に出演した浅野忠信(51)

まず、本当にストーリーが、ものすごく面白かった。僕は沖縄が大好きで、いつも癒やされていたので何か沖縄に恩返しできることがないかなと。沖縄のテレビ局に行って、ドラマがあったら出させてもらえないかなと思っていたら、すごい良い台本が来て、ぜひやらせて欲しいと思いました。皆さんと本当に仲良く、現場で過ごし、僕も安心しきって家族の一員としてその場にいることができた。作っていない、現場からあふれた笑顔が映画に入っています。

◆照屋年之(てるや・としゆき)

1972年(昭47)5月22日、沖縄県那覇市生まれ。首里高から日大芸術学部映画学科演技コースに進み、演技を学ぶ中で依頼されたコントの台本を制作。演じてお笑いの可能性を感じ、2年で中退。沖縄で素人のお笑いをやっていた川田を東京に呼びコンビ結成。09年「南の島のフリムン」で長編監督デビュー。18年「洗骨」はモスクワ国際映画祭に出品され、日本映画監督協会新人賞受賞。22年に沖縄が日本に復帰した72年が舞台の小説「海ヤカラ」を出版。173センチ、73キロ。血液型A。

◆「かなさんどー」

知念美花(松田るか)は母町子(堀内敬子)が亡くなる間際に助けを求めた電話を取らず、許せずにいた父悟(浅野忠信)の命が危ないと知らせを受け、7年ぶりに伊江島へ帰郷。関係を修復しようとしない中、母の生前の日記を見つけ、父と母のいとおしい秘密を知る。

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