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「ライク・ア・ローリング・ストーン」はボブ・ディランの転機を象徴する曲だ。それまでのアコースティックギター1本に電子楽器の厚みを加え、虚飾の生き方からの脱却を歌う詞にふさわしい重量感を表現した。
「名もなき者 A COMPLETE UNKNOUWN」(28日公開)のタイトルはこの曲の一節からとっている。ミネソタ州の港湾都市からニューヨークにふらりと現れた20歳の青年が、あっという間にフォーク界のプリンスともてはやされ、「ライク-」でその枠を超えるまでの5年間にスポットを当てた作品だ。
ディランがニューヨークにやってきたのは憧れのフォーク歌手ウディ・ガスリーとの面会が目的だ。放浪の詩人と言われたガスリーは難病を患い退役軍人病院に入っている。灰色の病室でディランは「あなたのために作った」という曲を歌い始める。
コロナ禍で撮影が止まった5年間にギターとハーモニカ、そしてディランの歌い方を修練したというティモシー・シャラメに思わずウッとなる。そこにはないものを見ているような独特の目線が、まるで若き日のディランを思わせる。
居合わせたのがガスリーと親交のあったフォーク歌手のピート・シーガーで、演じるエドワード・ノートンが、また素晴らしい。ディランの才能に一目ぼれし、後押しするこの好人物に成りきっている。
この冒頭場面でわしづかみにされ、「彗星(すいせい)のごとく」の形容にふさわしく「時代の代弁者」となったディランの躍進にあれよあれよと引き込まれる。
恋人シルヴィ(スージー・ロトロがモデル)とジョーン・バエズとの三角関係。ビジネス面で後押しするアルバート・グロスマンの商才…近作に「フォードVSフェラーリ」があるジェームズ・マンゴールド監督が、ていねいな時代考証を背景に手際良く織り込んでいる。
バエズが絡んだ名曲「風に吹かれて」誕生のいきさつと、この曲に対するディランの複雑な思い。シルヴィとの純愛のもつれ。そして「ロック転向」とフォークファンから非難された「ライク・ア・ローリング・ストーン」のパフォーマンス…監督とジェイ・コックスの共同脚本がすぐれているのだろう。どのエピソードにも納得感がある。
映画では省かれているが、「ライク-」の前年にはビートルズやローリング・ストーンズとの交流が芽生え、この相互に影響を与え合う関係が、ディランの転機の後押しになったことも頭に浮かんだ。
もっと先が見たい、と思わせる幕切れ。後にノーベル文学賞を始め、数々の最高栄誉に輝くディランのほとばしる才能を実感させる作品だった。鑑賞後、転換期の名盤「追憶のハイウェイ61」をもう一度聞きたくなった。【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」)