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78歳2000作品出演の堀田眞三 松方弘樹さんの教え「あいさつは全ての絆、原点だ」/連載3


御年78歳、日本人離れした濃い顔立ちで海外からもオファーが来る堀田眞三

俳優堀田眞三(78)が11日から15日まで、東京・渋谷伝承ホールで演劇集団UTARI第4回公演「時は今 天が下しる 桔梗かな」(主催:K‘sLink宮島啓)に出演する。

本能寺の変を新たな解釈で描く作品で、羽柴秀吉を演じる。出演は、他に若山騎一郎、加納明、田中正彦、賀集利樹、島本和人など。芸歴61年目、映画、テレビ、舞台合わせて2000作品に出演してきた堀田に聞いてみた。【小谷野俊哉】

   ◇   ◇   ◇

ひょんな事から、1968年(昭43)に東映ニューフェースの11期生に合格。最初に憧れたのは、任侠(にんきょう)モノの映画だった。

「映画界の最高は昭和33年から5年間が絶頂期だったんです。いわゆるヤクザもの映画、僕は東映大泉の現代劇に行きたかったんですよ。でも、チャンバラ活劇や任侠(にんきょう)モノで知られて、後に日本テレビの『傷だらけの天使』や、映画に復帰して『その後の仁義なき戦い』を手がけた工藤栄一監督から声がかかった。『あいつ結構、面白い声をしてるから絞り上げたらモノになるかも分からないから京都に連れて来い』と」

片岡千恵蔵、市川右太衛門、東千代之介、高倉健…太秦には東映の誇る銀幕のスターがひしめいていた。

「その時に松方弘樹さんに言われた言葉がある。『車を運転して駐車場に置いて、俳優会館に入るまでが一番しんどい』と。右を向いても左を見ても、スターさん、先輩ばっかりだ。だから俳優会館に入るまでに疲れる。とにかくそれぐらい、あいさつが一番大事だと。弘樹さんが教えてくれた。『あいさつは全ての絆、原点だ』と。僕は結構酒が強いから、弘樹さんにもかわいがってもらって、よく飲みに行きました」

“娯楽の王様”と言われた映画も、テレビに押されて、その座を明け渡しつつあった。

「だんだんと、何を映画にしても当たらなくなってしまた。中村錦之助先生主演で『鮫』という作品があったんです。異色の作品ですが、やっぱり興行的には良くなかったと思います。そんなんで何を出してもヒットしないというので、結果的にテレビの作品を作らなきゃいけないということになってきた。そこで最初に新しいスターとして登場してきたのが山城新伍さん。今のテレビ朝日の『白馬童子』で売り出していた」

現在の東京・渋谷の街の原型を作ったと言われた、ヤクザの安藤組の組長だった安藤昇。2015年(平27)に89歳で亡くなった安藤は、刑務所に服役後、組を解散。65年(昭40)に自叙伝の映画化作品「血と掟」で映画俳優へ転身した。

「安藤さんは、すごい劇的な生きざまをされていますから、松竹から生きざまを映画化させてくれって言って来たわけですね。安藤さんは、そんな気がないから軽く答えた。『今、松竹で一番高いギャラは誰ですか』と。中井貴一さんのお父さんの佐田啓二さんが文芸路線のスターで、1本で250万円くらいもらっていた。安藤さんが『倍でお願いします』と言って、それで映画界入り」

松竹は文芸路線で売ってきたこともあって、株主や関係者から異議も出た。

「それで、2年で東映で引き受けた。女優の富司純子さんのお父さんの俊藤浩滋プロデューサーが手を回したんです。実録路線どころじゃなくて、元々本物ですからね。撮影にしたって、その表情とかすごいんですよ。安藤さん本人が、映画の中で逃げたりしてるわけですから。主演映画が60本くらいあるんですけど、全部ヒットしてるんです。日本中の、その筋の人は見に行っちゃいますからね」

プライベートでも、安藤とは深く関わった。

「安藤さんは、頭もキレた。僕は、本当に『安藤のおやじ』って言うくらいかわいがってもらった。安藤さんの事務所が渋谷と赤坂坂にあって、しょっちゅうお邪魔してね。友達3、4人とか、彼女なんかとお茶しようとすると、喫茶店代わりに使えてしまったんですよ、安藤さんの事務所。とにかく自由に出入りしていました」

戦争中に予科練から特攻隊を志願した安藤は、アジアに深い思いを持っていた。

「戦争中の大東亜共栄圏じゃないですけど、日本と全東南アジアが手を携えるみたいな構想がありました。そういう時に安藤のおやじは、俺はフィリピンを受け持とうと決めた。日本で車検の切れた消防車を持って行くことを考えたんです。フィリピンは財政状態が良くなくて困っていたところに援助したんですよね。そういうことを官僚や政治家に代わって考えていました」

フィリピンでは、安藤昇は最高の礼をもって迎えられた。

「安藤のおやじが『俺は今度、フィリピンへ行くんだ』って。で、フィリピンの空港へ着くと、そこからマラカニアン宮殿まで先導車でダイレクトに入っていけたそうです。『俺は国賓なんだよ』っていってました。とにかく桁違いの発想と腹をくくられた、頭の回転の素晴らしい方でした。今、渋谷の街を歩くと、安藤昇が作ったとなんとなく思い浮かぶね。109の裏側とか坂の上の方とかね」

安藤昇は2015年(平成27)12月16日に89歳で亡くなった。翌年2月28日に東京・青山斎場で「安藤昇 お別れの会」が行われた。

「誰が弔辞を読むかと言うことになってね。監督は佐藤純弥さんが体調悪いってっていうことで、中島貞夫さんが監督代表。次に俳優代表の弔辞は、生きていれば菅原文太さんだった。文太さんが、一番安藤さんに面倒を見てもらってた。生きてこれたのは安藤さんのおかげだっていう文太さんが亡くなってた。それで松方弘樹さんは、その時に愛知県の春日市で歌のショーが入っていた。梅宮辰夫さんは体調が悪くてダメだった」

(続く)

◆堀田眞三(ほった・しんぞう)1945年(昭20)10月20日、熊本県御所浦町(現天草市)生まれ。63年第11期東映ニューフェース。64年映画「くノ一化粧」で俳優デビュー。70~72年TBS「キイハンター」。73年映画「やくざと抗争 実録安藤組」。79~80年TBS系「仮面ライダー」。10年(平22)NHK大河「龍馬伝」。176センチ。血液型O。

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