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ブレイキン“先駆者”風見しんご、ある映画に衝撃受け41年前に単身NYへ 五輪代表に「楽しんで」


「涙のtake a chance」で踊る風見しんご

パリ五輪で、ブレイキン(ブレイクダンス)が初めて正式種目に採用された。ブレイクダンスが、日本で初めて広く知られるようになったのは、1984年(昭59)にタレント風見しんご(61)が「涙のtake a chance」をリリースしたことがきっかけだ。それまで見たこともないダンスをしながら歌って、若者、子供を中心に人気を集めた。現在、米ロサンゼルスに留学中の“先駆者”が競技の魅力を語るとともに、パリの大舞台に挑む日本代表にエールを送った。【聞き手=小谷野俊哉、大友陽平】

   ◇   ◇   ◇

20年12月、五輪の正式種目として、ブレイキンが採用された。

「正直言うと、最初は驚きと喜びが半分、そして残りは不安といいますか…。2018年のブエノスアイレスのユース五輪で採用されて、そこで成功してひょっとしたらという思いはあったんです。ストリートから生まれて、僕らの頃はストリートダンスという言葉もないですし、最初は踊りというよりは若者たちのえたいの知れない動きの大道芸みたいなものでしたから。そこから、いろんな人たちが紡いで紡いで、五輪の競技になったのはうれしかったですね」

出会いは、1983年(昭58)に公開された映画「フラッシュダンス」だった。

「その中のほんのワンシーンに、ニューヨークの路上でブレイクダンスを踊る子供たちが映るんですね。なぜかそのワンシーンに衝撃を受けて、これを見たいというか、これをやりたいと。別に計算とか何があったわけじゃない、何かが僕を夢中にさせてくれたんです。それがちょうど20歳の頃です。JAC(ジャパンアクションクラブ)の方にバク宙とかを教わったりして。ただ今のようにネットがある時代でもないし、雑誌くらいしかなかった。動きというのが、今みたいにビデオが簡単に見られる時代じゃなかった」

教える人も、知る人も少ない時代。単身、ニューヨークに渡った。

「現地に行って生を見るしかないだろうと、ニューヨークに行ったのが最初です。行ったといっても10日とか2週間前後。現地で紹介してもらったコーディネーターとか、ホテルのフロントの人に『どこに行ったら、映画で見た踊りは見られますか?』と聞いて。タイムズスクエアのあたりは劇場街だったりするので、劇場が始まる前の時間に、段ボールを敷いてブレイクダンスを踊って小銭を稼ぐ若者たちがいたんです」

知識もなく、片言の英語で教えを請うた。

「彼らはプエルトリコの人だったのかな…。最初は、どうやったらそうやって背中で回れるの? とか。あとは立ち技でウエーブという波を打つのがあるんですけど『最初に指を曲げて卵を持って、卵を落として、ひじを付いた形にして伸ばして、これをつなげると波になるよ』っていうのを、路上で教えてもらいました。その子たちが路上で撮っていたビデオを、結構いい値段だったんですけど、3本くらい買って帰りました。日本に帰って見たら、3本とも内容が全く一緒だったっていうオチがついて。それも今では、すごくいい思い出です(笑い)」

ニューヨークで仕入れたビデオを参考にしながら、独学で学んでいった。

「僕がレギュラーで出ていた萩本欽一さんのTBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』のスタッフの方や、レコード会社の方がいろいろな情報を集めてくれていたんです。新宿の歌舞伎町のディスコに踊れる子が何人かいるらしいと。それが、後の僕のバックダンサーになります。彼らも素人で、ダンスが好きで独学で学んでディスコで踊ってたんですよね。ちゃんとした先生がいなかったからこそ、自分たちで全部やらないといけない。今思うと、それがより夢中にさせてくれて、より頑張れたと思います」

83年に「僕 笑っちゃいます」で歌手デビュー。当時は“かっこよくて面白いアイドル”が風見しんごだった。

「年に1回くらい日本縦断コンサートツアーみたいなのをやっていてんです。それでバックダンサーたちが独学で覚えた、それぞれが得意な技を僕に教えてくれて、踊ったりしてたんです。そこで反響が良くて、どうにかテレビでこれをやりたいなぁとは思っていたんです。そんな思いを抱えていた時に『週刊欽曜日』のエンディング曲を僕が歌うことになったんです。それが『時計をとめて』というバラード調の素晴らしい静かな曲でした」

ただ、ブレイキンとはほど遠いバラードだった。その思いが態度に表れてしまったが、“好転”を生んだ。

「素晴らしいけど、この曲に合わせてブレイクダンスはできないと思って。僕も若かったから、そんなしょげた態度が萩本さんには伝わったんだと思うんです。『それでお前、他に何がやりたいんだ』と。それで初めて萩本さんの前で踊ったんです。そうしたら萩本さんが鶴の一声で『じゃ分かった。それ、踊ってみろ、やってみろ』というので、急きょ曲目を変更したんです。そしてすぐに来たのが『涙のtake a chance』でした。ちなみに『時計をとめて』はテレビ朝日さんの『欽どこ』の方にいって、わらべの3人が歌いました。萩本さんが鶴の一声で僕のわがままを許してくれなければ、僕はテレビでブレイクダンスを踊ることはなかったですし、日本人がブレイクダンスを意識するのも、何年か遅れたかもしれませんね」

ウィンドミルなど、ブレイキンの技を取り入れたダンスは瞬く間に広がり、ブレーク。その後、多くのダンサーに影響を与えた。

パリの大舞台に挑むのは、HIRO10こと大能寛飛(19)Shigekixこと半井重幸(22)AMIこと湯浅亜実(25)AYUMIこと福島あゆみ(41)の4人だ。

「Shigekix君と一緒に踊らせてもらった時とか、彼の動きを見ていると『こんな技ができたら、どんだけ気持ちがいいだろう』っていう風にすごく感じましたね。AYUMI選手は41歳で日本代表女子の2人のうちの1人に選ばれました。それは本当に彼女の努力と、そして彼女自身が持つ魅力なんだと思います。瞬発力とかを考えると、20代と40代を比べたら絶対に差があってしかるべきです。でも、そこを克服している。経験もだけど、彼女はダンサーであり、アスリートなんだなっていうのを感じています」

期待するのは、メダルよりも“楽しさ”だ。

「今回出場する4人には、オリンピックをぜひ楽しんでいただきたいと思います。この競技はやる方も見る方も楽しむっていうのが絶対。今回の4人も、オリンピックがあるから始めたわけではないと思うんですね。こんな踊りが純粋にしてみたい、こんなダンサーになりたい、そんな憧れから入ってきた彼らがオリンピックに出る。だからこそ僕は、メダルどうこうよりも楽しんでもらいたい」

パリ五輪で初採用されたブレイキンは、次回の28年ロサンゼルス五輪では正式種目でなくなってしまう。

「ブレイキンの選手としてオリンピックの景色を見られるのは、今のところ日本人では彼ら4人だけ。ブレイキンの生まれ故郷のアメリカのロス五輪では正式種目でなくなるのは少し残念です。でも、彼らが五輪で楽しむ姿を見て、ダンサーを目指したという子供たちが、やがて登場する。僕も萩本さんに許してもらってテレビでブレイクダンスをした時に、子供たちがすごく応援してくれたんです。今でも、そう言って声をかけてくれる人たちがいます。その何十倍、何百倍の反響が今回はあると思う。そして、その子供たちが復活した五輪のブレイキンに出場してくれることになったら…。素晴らしいことですよね」

40年以上前、風見が徒手空拳でニューヨークに行って学んで日本に持ち帰ったことが、パリで、そして世界で花開く。

◆風見(かざみ)しんご 1962年(昭37)10月10日、広島市生まれ。82年成蹊大在学中に芸能界入り。82年、オーディションに合格し、TBS系「欽ちゃんの週刊欽曜日」で欽ちゃんファミリーの一員に。83年「僕 笑っちゃいます」で歌手デビューし、84年「涙のtake a chance」など。23年から、米ロサンゼルスに留学し、在住。169センチ。血液型A。

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