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売国奴と呼ばれる人たち:ロレンソ・デ・サバラ(歴ログ -世界史専門ブログ-)



今回はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。


売国奴と呼ばれる人たち:ロレンソ・デ・サバラ(歴ログ -世界史専門ブログ-)



テキサスの独立を手助けしたメキシコの「売国奴」


ロレンソ・デ・サバラ(1788-1836)はメキシコ・ユカタン出身の政治家・ジャーナリスト・医師。


熱烈な共和主義者であったサバラは、連邦国家メキシコの憲法草案の執筆にも携わるほどのインテリで、当時のメキシコの最高の知識人でした。


ところが軍人サンタ・アナが独裁色を強め、サバラが描いた共和主義が踏みにじられていくのを目の当たりにし、独裁に抵抗するためにメキシコに帰国しテキサスに移住。


そこでサバラは自分の理想とする共和国家の実現を目指し、テキサス分離勢力と結び、テキサスのメキシコからの独立を支持します。テキサス共和国の憲法の草案を書き、国旗のデザインも手がけ、副大統領にも就任しました。


その後テキサスはアメリカの連邦の一つとなったため、サバラはメキシコ人からは「テキサスをアメリカに売り渡した売国奴」とみなされています。


1. 政治家の道へ


ロレンソ・デ・サバラは1788年10月にユカタンの小さな町テコの生まれ。


両親はスペイン・バスク系で、祖父の時代にペルーからユカタンに渡って来た家でした。父親は公証人を勤め、家は比較的豊かだったようです。

ユカタンの州都メリダにある神学校で学び、ここで基本的な学問の素養を学びながらも、共和主義の考え方に深く共鳴していきました。


卒業後にエル・アリスタルコ・ユニヴェルサルという名の新聞を創刊し、共和主義・民主主義を訴えスペイン当局を批判する記事を書いたため、26歳のときに逮捕され3年間投獄されてしまいます。


投獄中に英語と医学を学び、開放時には開業医になれるほどの医学の知識を有していました。ホンモノの天才ですね。


その後、ユカタンの地方政府の秘書から政治キャリアをスタートさせ、その後本国スペイン議会のユカタン州選出の議員となり、マドリードに駐在しました。


1821年にメキシコがスペインから独立したあとは、マドリードからメキシコに戻り、新たに設定されたメキシコ議会の議員に選出されました。


2. アメリカ亡命


サバラは1824年にメキシコ連邦共和国の憲法を草案する憲法会議の議長に選出されました。出来上がった連邦憲法に最初に署名をしたのもサバラです。


彼は1829年に財務大臣に任命されますが、わずか6ヶ月後に財務破産。その責任を取らされてサバラは逮捕されるも、アメリカに逃亡しました。


アメリカ亡命後、サバラは民主主義と共和主義の本場アメリカを見聞して周り、メキシコ人の視点からアメリカの政治システムと文化について執筆を続けました。


口ではもっともらしいことばっか言ってるのに実際には奴隷制度を維持し儲けるアメリカの偽善的態度を批判するなど、鋭い批評でサバラのエッセイは人気となりました。


アメリカでの拠点ニューヨークにて、1808年から1830年までのメキシコ革命を叙述したエッセイ「EnsaoHistóricode las Revoluciones deMéxicode 1808 hasta 1830」を執筆。英語・フランス語・スペイン語に翻訳されて世界中で読まれ、サバラは文筆家しても成功を収めました。フランス地理学会にも加入しています。


3. テキサス独立戦争の勃発



テキサスへ移住

1832年、独立の英雄アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アンナ将軍により、新たに設定されたメヒコ州の知事に就任するよう要請を受け、メキシコに帰国。


その後、サンタ・アナの命令によって駐フランス大使に任命されました。


▽アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アンナ



しかしサバラのフランス滞在中、サンタ・アナは独裁色を強めていきます。


サンタ・アナは1834年5月24日に「クエルナバカ綱領」を刊行して、自由主義改革の廃止を宣言。翌月に議会を解散し、サバラが作った共和国憲法を停止。軍による独裁政権を樹立し、権力を一元化させました。


これに対し、各地の州政府は反対を表明。サンタ・アナとの対決姿勢を強めていきます。サバラも共和国の危機を救うため、駐フランス大使の職を辞し、メキシコへ帰国。


そしてサバラは家族と自身の安全のために、反サンタ・アナで共和主義を強く信奉するコアウイラ・イ・テハス州に移住しました。その地こそ後にテキサス州と呼ばれることになる州です。


サバラは土地を買い求め、親友のステファン・F・オースティンと共に暮らし始めました。ちなみに、彼は後に「テキサスの父」と呼ばれることになる男です。


▽ステファン・F・オースティン



 

アメリカ移民の反サンタ・アナ運動

メキシコ政府はコアウイラ・イ・テハス州に移民する助成金を付与し国境警備の強化を図っていました。


アメリカとメキシコとの間に緩衝地帯を作り、インディアンなどの敵対的な勢力のメキシコへの侵入を防ぐために、武装移民で防備を固めることが重要だったためです。


サバラもそのプログラムの一貫でテキサスに渡り、他には500もの家族が共に移住しました。その中にはアメリカからの移住者も多く、彼らはトマス・ジェファソンが提唱し合衆国の基礎とされた独立自営農民。政府による過度な干渉を嫌い、自立自存を良しとする価値観を持つ人たちです。


そんな移民たちにとって、サンタ・アナによる強権的な手法は許されざることであり、自分たちの権利を守るために武器を取ることが当然と考えられました。サンタ・アナはこれに対し、アメリカが組織的にメキシコの国内問題に介入したとして軍隊を派遣。アメリカ移民とメキシコ軍との間で散発的な戦闘が発生します。


 

サバラ、テキサス独立賛成派と協力

サバラはサンタ・アナの独裁政権を倒し、メキシコに共和主義・民主主義を取り戻すことを目指しており、復活した共和国家メキシコの領土には当然テキサスも含まれるべきものと考えていました。


しかし冷徹なプラグマティストであるサバラは、急進的な共和主義の植え付けはメキシコの大地には根付かないと考え、まずは足元のテキサスで共和主義を成熟させ、その後メキシコに移植する方がよいと考え始めました。


テキサス内の独立論の噴出を受け、サンタ・アナはサバラの逮捕を命じますが、サバラはさほど危険な状態になく、テキサス独立賛成派と行動を共にし、テキサス共和国の憲法草案の作成に携わるようになりました。


 

テキサス独立戦争の勃発

1835年10月1日、ゴンザレスの地で大規模な戦闘が勃発。これに勝利したテキサス独立軍は、続くコンセプシオンの戦いでも勝利を収めました。


ゴンザレスの戦闘の後、遺留地の代表者の会議が開かれて暫定政府が発足。そこで激論の末に、当面はテキサス独立を主張せずに、この戦いは中央集権に反対するための抵抗であると定義づけられました。


1836年3月には、サバラの手によってテキサス共和国の独立宣言が起草され、サバラ作の新しい共和国の旗が発表されました。



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Image by Glasshouse

https://commons.wikimedia.org/wiki/User:Glasshouse


また、サバラは暫定政権下の副大統領にも就任しています。


初戦の敗北を受け、サンタ・アナは6,000もの軍を急ごしらえで作り、自ら指揮を取りテキサスへ侵攻させました。


あまりにも急ごしらえで作ったので、浮浪者や囚人などを含むとてもお行儀の良いとは言えない集団で、彼らはアラモやゴリアドで現代も語られる虐殺事件を引き起こすことになります。


サンタ・アナの戦略はシンプルで、物量でテキサス独立軍を圧倒すること。1836年3月に有名なアラモ砦が陥落し、次いでウレアの戦いではテキサス軍はメキシコ軍に包囲され降伏。


メキシコ軍の攻勢の前に、テキサス軍のサム・ヒューストン将軍は軍を焦土戦をとりながら大規模に撤退させ、サンジャストン川の向かいにまで軍を退けました。


そして1836年4月21日、サンジャシント川で両軍は戦い、テキサス軍は決定的な勝利をえました。


移動に次ぐ移動で疲れ切り補給も充分でなかったメキシコ軍に対し、少数ながら充分な休息を取り気合十分のテキサス軍の戦いは、テキサス軍が一方的にメキシコ軍を打ち負かす展開で、メキシコ軍は650名が死亡したのに対し、テキサス軍はわずか11名。


翌日、テキサス軍の小部隊が一兵卒の服を着て沼地に隠れていたサンタ・アナを発見。捕虜としました。


4. テキサス独立宣言



Work by Raymond1922A

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Republic_of_Texas_labeled.svg


テキサス独立宣言

メキシコ大統領サンタ・アナを捕えることに成功したテキサスは、大統領バーネットがサンタ・アナと交渉し「ベラスコ条約」に調印しました。


条約といっても捕虜状態にある人物との交渉なので、テキサス側に圧倒的に有利な内容となりました。内容はもちろん「メキシコ軍のテキサスから撤退と、テキサス共和国の独立を認めること」。その代わりにテキサスはサンタ・アナの命を保証しベラクルスまでの帰還を保証するとしました。


テキサスはこれをメキシコ政府に伝達するも、メキシコ側はサンタ・アナ不在のままサンタ・アナの弾劾を決定しており、既に引退した大統領との条約は無効であると宣言しました。


 

サバラ死亡

テキサス独立から数ヶ月後、サバラは健康状態が悪化は副大統領の職を辞して引退。テキサスの自宅に帰宅しました。


その後1ヶ月も経たないうちに、川でボートに乗っていた時にボートが転覆して川に放り出されてしまいました。それが原因で肺炎を発症し、1836年11月15日に自宅で死亡しました。


その後、サバラが作ったテキサス共和国は9年間独立を守りますが、時のテキサス共和国大統領アンソン・ジョーンズによってアメリカ合衆国に合流。28番目の州となりました。


まとめ


非常に真面目で誠実な実務家という印象です。


頭も良くて現実的で見通しも予測できるから、自分の理想を実現しようと目の前のことをコツコツとこなしていた。ところが蓋を開けてみたら自分が当初想像していた所よりかなり遠い所に達してしまった、という感じです。


彼の最終目標はメキシコを共和国家にすることでしたが、サンタ・アナの独裁は破れず、あまつテキサスはアメリカに併合されてしまった。


彼自身はまったく望んでいない結果だったでしょうが、後世の人から「テキサス建国の父の1人」と言われてしまうのは皮肉としか言いようがありません。


参考サイト


「ZAVALA, LORENZO DE 」『TEXAS STATES HISTORICAL ASSOCIATES』

https://tshaonline.org/handbook/online/articles/fza05


「Lorenzo de Zavala Online: Empresario, Statesman and Texas Revolutionary」『The Portal of Texas History』

https://texashistory.unt.edu/explore/collections/LDO/


「Lorenzo de Zavala」『Wikipedia』

https://en.wikipedia.org/wiki/Lorenzo_de_Zavala


 

執筆: この記事はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。


寄稿いただいた記事は2019年3月28日時点のものです。


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