3月21日にマリナーズで活躍してきたイチロー選手が東京ドームでアスレチックスとのMLB開幕第2戦終了後に引退を発表。その日の深夜に会見を行った。
ユニフォーム姿で会見会場に現れたイチロー選手は、集まった報道陣を見て「こんなにいるの? ビックリするわ」と一言。
そして、「今日のゲームを最後に日本で9年、アメリカで19年めに突入したところだったんですけれども、現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました。最後にこのユニフォームを着てこの日を迎えられたことを大変幸せに感じています」と挨拶した。
引退を決めたタイミングについて、「キャンプ終盤ですね。日本に戻ってくる何日前とハッキリとはお伝えできないんですけど、終盤に入ったときです。元々、今回の日本の東京ドームでプレイするところまでが契約上の予定でもあったということもあったんですけど、キャンプ終盤でも結果が出せずに、それを覆すことができなかった、ということですね」と明かした。
引退という決断に後悔や思い残すことはないか問われると、「今日のあの球場での出来事……、あんなものを見せられたら、後悔などあろうはずがありません。もちろん、もっと出来たことはあると思いますけど、結果を残すために自分なりに重ねてきたこと、自分なりに頑張ってきたということはハッキリと言える」と、きっぱりと言い切った。
去年年の5月からシーズン最後の日までの日々が誇り
――1992年に一軍デビューしてから、印象に残っているシーンは?
イチロー:この後、時間が経ったら、真っ先に今日のことが浮かぶことは間違いないと思います。ただ、それを除くと、いろいろな記録に立ち向かってきたんですけど、そういうものは大したことではないというか。自分にとって、それを目指してやってきたんですけど、いずれそれは僕ら後輩が先輩たちの記録を抜いていくのはしなくてはいけないことでもあるとは思うんですけど、そのことそれほど大きな意味はないというか。今日の瞬間を体験するとそんな風にすごく小さく見えてしまうんですよね。その点で、例えば10年200本続けてきたこととか、MVPを取ったとか、オールスターで、ということは本当に小さなことにすぎないと思います。
今日のあの舞台に立てたことというのは、去年の5月以降、ゲームに出られない状況になって、その後もチームと一緒に練習を続けてきたわけですけど、それを最後まで成し遂げられなければ、今日のこの日はなかったと思うんですよね。今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うんですけど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にも出来ないことかもしれない、とささやかな誇りを生んだ日々であったんですね。その事が、どの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りを持てたことかなと思います。
引退を決意したのは「マリナーズ以外には行く気持ちがなかった」
――決断の前に、引退が浮かんで悩んだ時期は?
イチロー:引退というよりも、クビになるんじゃないか、はいつもありましたね。ニューヨークに行ってからは毎日そんな感じです。ニューヨークって、まあ特殊な場所です。マイアミもまた違った意味で特殊な場所です。だから、毎日そんなメンタリティーで過ごしていたんですね。クビになるときはもうまさにその時(引退)だろう、と思っていたので、そんなのしょっちゅうありました。
――引退を決意した理由は?
イチロー:マリナーズ以外には行く気持ちがなかった、ということは大きいですよね。去年シアトルに戻していただいて、本当に嬉しかったし、先程キャンプ前のオファーがあった話をしましたけど、その後5月にゲームに出られなくなる。あの時もその(引退の)タイミングでもおかしくないんですよね。でも、この春に向けてまだ可能性があると伝えられていたので、そこも自分なりに頑張って来られた。
純粋に野球が楽しかったのは3年めまで
――グリフィー選手が「肩の荷をおろしたときに違う野球が見えてまた楽しくなる」という話をされたんですが、そういう瞬間はあった?
イチロー:プロ野球生活の中ではないです。ただ、子供の頃からプロ野球選手になることが夢で、それが叶って。最初の2年、18歳、19歳の頃は一軍に行ったり、二軍に行ったり、そういう状態でやっている野球はけっこう楽しかったんですよ。それで、94年、3年めですね。仰木監督と出会って、レギュラーで初めて使っていただいたわけですけども、この年まででしたね、楽しかったのは。
あとは、その頃から急に番付を一気に上げられちゃって、それはしんどかったです。やっぱり力以上の評価をされるというのはとても苦しいですよね。だから、そこからは純粋に(楽しめなくなった)……。もちろん、やりがいがあって達成感、満足感を味わうことはたくさんありました。ただ、楽しいかと言うと、それとは違うんですよね。そういう時間を過ごしてきて、将来はまた楽しい野球がやりたいなというふうになりました。
これは皮肉なもので、プロ野球選手になりたいという夢が叶った後は、そうじゃない野球をまた夢見ている自分があるときから存在したんですね。でも、これは中途半端にプロ野球生活を過ごした人間にはおそらく待っていないもの。例えば草野球に対して、やっぱりプロ野球でそれなりに苦しんだ人間でないと、草野球を楽しむことが出来ないのではないかと思っているので、これからはそんな野球をやってみたいなという想いですね。
そっちがいずれ楽しくてやっていると思うんですけど、そうするときっと草野球を極めたいと思うんでしょうね。だから(今後は)真剣に草野球をやるっていう、野球選手になるんじゃないですか? 結局。
今この状況が「夢みたい!」「死んでもいい」と思えた
――開幕シリーズを大きなギフトとおっしゃっていましたね。
イチロー:本当にこれは大きなギフトで。去年、3月の頭にマリナーズからオファーをいただいてからの今日までの流れがあるんですけども、去年の春で終わっていても全然おかしくない状況でしたから、もう今この状況が信じられないですよ! あのとき考えていたのは、自分がオフの間、アメリカでプレーするために準備をする場所が神戸の球場なんですけど。寒い時期に練習するので、凹むんですよね、やっぱり心が折れるんですよ。でもそんなときも、いつも仲間に支えられてやってきたんですけど、でも最後は今まで自分なりに訓練を重ねてきた神戸の球場でひっそりと終わるのかな、とあの当時は想像していたので、もうこんなの夢みたいですよ! これも大きなギフトです、僕にとっては。
――今日は涙がなくむしろ笑顔が多いように見えたのは、この開幕シリーズが楽しかったということですか?
イチロー:これも純粋に楽しいということではないんですよね~。誰かの想いを背負うということは、それなりに重いことなので、そうやって一打席一打席立つことって簡単ではないんですね。だから、すごく疲れました。やっぱり1本ヒットを打ちたかったし、(期待に)応えたいと当然ですよね、それは。
僕には感情がないと思っている人もいるみたいですけど、意外とあるんですよ(笑)。だから、結果を残して最後を迎えたら一番いいなと思っていたんですけど、それは叶わずで。それでもあんな風に(ファンが)球場に残ってくれて。死なないですけど、「死んでもいい」という気持ちはこういうことなんだろうなと思います。そういう表現をするときって、こういうときなのかなと思います。
監督はないが、子どもの指導には興味がある
――現役を終えたら指導者になったり、タレントになったりすることがありますが、イチロー選手は?
イチロー:監督は絶対無理ですよ。これは「絶対」が付きます。人望がない、本当に。僕人望がないんですよ。それくらいの判断能力は備えているので。ただ、どうでしょうね~。プロの選手やプロの世界というよりも、アマチュアとプロの壁がどうしても日本の場合特殊な形で存在しているので。今までややこしいじゃないですか。例えば、極端に言えば自分に子供が居たとして、高校生であるとすると、教えられなかったりするルールですよね?そういうのってなんか変な感じじゃないですか。
今日をもって元イチローになるので、小さな子どもなのか、中学生なのか、高校生なのか、大学生なのか、わからないですけど、そこ(指導すること)には興味がありますね。
――日本の野球で鍛えられたものは?
イチロー:基礎の動きって、おそらくメジャーリーグの選手より、日本だったら中学生レベルの方が上手い可能性だってありますよ。それは、チームとしての連携もあるじゃないですか。そんなの言わなくたって出来ますからね、日本の野球は。でもこちら(アメリカ)ではなかなかそこは……個人としての運動能力は高いですけど。そこにはかなり苦しみましたよね。苦しんで諦めましたよね。
得たものは「勝利することは大変なこと」という感覚
――プロ野球選手の夢を掲げていた小学生時代の自分にどんな言葉をかけたいですか?
イチロー:「お前、契約金1億ももらえないよ!」って(笑)。いや、夢は大きくと言いますけどね、なかなか難しいですよ。ドラ1の1億と掲げてましたけど、全然遠く及ばなかったですから。ある意味ではそれは挫折ですよね。
――プロ野球選手になるという夢を叶えて何を得た?
イチロー:それは、200本もっと打ちたかったし、出来ると思ったし、2年目に116勝して、その次の2年間も93勝して。勝つのってそんなに難しいことじゃないな、ってその3年は思っていたんですけど、大変なことです、勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね。
また、常々、最低50歳まで現役と言い続けてきたイチロー選手。「日本に戻ってきてもう一度プレーするという選択肢は?」という質問に「なかったです」と即答。その理由を問われると、「それはここでは言えないな~(笑)。でも最低50歳までと本当に思っていたし、その表現をしてこなかったらここまで出来なかったかもなという想いもあります」と返した。
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