国や東京都による規制が強化されようとしている受動喫煙防止対策。5月31日、世界禁煙デーに合わせて日本医師会館で開催されたイベント(テーマ/受動喫煙防止はどのように進展させるのか)でも、新たな法や条例の施行に前のめりな発言が相次いだ。
「都は独自の新しいルールを設けることによって、働く人や子どもを受動喫煙から守ることが対策の柱。国(健康増進法の改正)よりもプラスアルファする部分を設けながら、東京オリンピック・パラリンピックのホストシティとして、何としてでも(条例を)成立させたいと考えている」(小池百合子・東京都知事)
「17年前に自分が中心となって考えた健康増進法(の受動喫煙対策)は努力義務で終わらせてしまったが、今回は何とか任期中に義務規定に変えたいと、オリンピックをネタにして世を盛り上げ、ようやくここまでたどり着いた。批判はあるだろうが、実際に法を施行してみると、あれよあれよという間に日本中、世の中が変わっていくことを当時も実感した」(正林督章・厚生労働省健康局健康課課長)
「いま国会に出されている政府与党案は、受動喫煙防止の実効性を上げる意味では極めて穴だらけのザル法。オリンピックのために法案は通しましたという既成事実を作るだけでは意味がない。われわれ野党も政府案の対案を出そうと必死で頑張っている。最終的には少しでも修正がかけられるように努力したい」(松沢成文・参議院議員)
同イベントでは“すわん君”という禁煙啓発のゆるキャラまで登場し、とにかく「法規制ありき」「タバコゼロ」の気運に包まれた。
もちろん、国や東京都が掲げる〈望まない受動喫煙〉は最大限、防がなければならない。いまや少数派となった愛煙家もルールやマナーに則った分煙の促進に異論はないはずだ。しかし、いつの間にか罰則つきの“屋内禁煙法”が当然の策のように講じられ、国民に選択の余地が与えられずに強制されていくのは行き過ぎではないか──。
そもそも受動喫煙防止対策はどこまでの規制が許され、逆に何が許されないのか。法哲学が専門の慶應義塾大学法学部教授の大屋雄裕氏に、法の原理原則をもとにした見解を聞いた。
◆「不快」を根拠に多数者が少数者を排斥することは許されない
──国や東京都による受動喫煙対策の規制強化が行われようとしている。
大屋:私自身はたばこを吸いませんし、たばこの煙について強い拒否感があるわけでもないので、いま進んでいる受動喫煙対策の行方について個人的には関心の薄い話なのですが、一法学者としては違和感を覚える部分があります。
まず、多くの科学者が言っているように、喫煙行為自体は健康に害があるでしょうし、受動喫煙も何らかの害を受けるのだろうと思います。健康寿命や平均余命という観点から見れば短縮されてしまうのかもしれません。ただ、喫煙なり受動喫煙をしたら、すぐに病気になったり死に至ったりするわけではなく、健康に対するリスクが徐々に高まるという認識ですよね。肺がんの罹患率が上がったり……。
問題は、そうした健康リスクを減らすために、どのような社会的コントロールが許されるかということです。
──法規制の目的はあくまで能動的な喫煙ではなく、他人に影響を及ぼす「受動喫煙」の防止対策が建前だ。
大屋:昔から法哲学の常識として捉えられているのは、英国人のジョン・スチュアート・ミルという人が唱えた「他者危害原理」です。英語ではハームといいますが、〈国家が何かを禁止できるのは、その行為が他者に危害を及ぼす場合に限られる〉という原理です。
例えば、「痛い」は明確に危害ですよね。暴行・傷害・殺人、財産的な痛みであるところの窃盗なども国家が禁止してよい行為です。
他方で、危害に及ばないものは取り締まりの対象にはなりません。典型的なのは不快感です。隣の家に黒人が住んでいるからイヤだとか、不快感を根拠にして多数者が少数者を排斥することを可能にしたら、結局少数者は生きていけない。それは許されないとミルは説きました。
結局、社会的に多数の人が「自分たちが嫌うものは禁止だ!」と法律をつくり、少数者や弱者に強制することが罷り通ると、たまたま少数派になった人は、いつ命まで奪われるか分からず安心して暮らせない。多数者であっても国家であっても、ここまでしかできないという境界線を引くことによって、少数弱者の「自由」や「自己決定権」、「生命」を守ろうとしたのです。
──その原理でいくと、喫煙者は少数派。多数の非喫煙者が不快感を根拠に愛煙家を追いやることは許されない。
大屋:そうですね。ただ、ミルの大原則だけでは対処が難しい問題があるのも事実です。
例えば、露出狂に見たくないものを見せられた場合、自己決定権の侵害や不快感はありますが、これを危害とまで言えるかどうかは難しいですよね。その他、ニューサンスと呼ばれる〈悪臭・騒音・振動〉などの類型もただちに害悪かと言われると難しい。その日だけ隣の部屋のステレオが誤作動して爆音がしているかもしれませんしね。
でも、これを毎日3時間もやられたら明らかに困ります。つまり、悪臭や振動はそれ自体が悪なのではなく、継続することによって我々が日常生活を送りにくくなったり人生の享受が妨げられたりするのです。
かつてアメリカにはジョエル・ファインバーグという哲学者がいて、彼はこれらの類型を不快(オフェンス)と呼びました。オフェンスはハームよりは弱い類型だが、継続的に不快感が生じたり、我々が受け入れたくないときにやってくる場合は、何らかの規制対象にしていいと危害原理を修正しようとしました。
──なるほど。受動喫煙も継続的に不快感を与える可能性はある。
大屋:たばこの煙はニオイもありますし、受動喫煙によって不快感を覚える人が大勢いるのは事実です。健康リスクの増大はただちに危害とはいえませんが、明らかにオフェンスではあるので、野放しにしていいというわけにはいかないでしょう。
ただし、ファインバーグは弱い侵害の類型について、規制や禁止にするほどではなく、予告やゾーニングのような対策が適切だろうと提唱しました。
例えばポルノグラフィーのように、見たい人が見るときには何の危害も不快もないが、見たくない人が見せられると不快になる物もあります。これはTPO(時と所と場合)の問題で、適切にコントロールするためには表紙に描写を載せないとか、「この本はポルノグラフィーです」とはっきり明記しておくことが重要です。
また、「ここから先はポルノグラフィーの売り場です」と物理的にゾーニングして展示場所を変える方法でも空間的分離はできる。つまり、見たくない人が拒否権を持てるような可能性を確保することを規制の内実として考えようと、ファインバーグは提案したのです。
その論でたばこも不快だとするならば、最も適切な規制の仕方は「分離」であるはずです。たばこを吸いたい、あるいはたばこのニオイが苦にならない人は、近付くことができる一方で、イヤな人は近づかなくて済むようにするのが最も適切な対策といえます。
◆飲食店に一律禁煙を要求するのは不当
──その観点からいえば、飲食店の受動喫煙対策も、店頭に喫煙、禁煙、または分煙かをしっかり表示すれば十分なはず。
大屋:本来、全面喫煙の店と全面禁煙の店は「等価」であるはずです。問題なのは店に入って席についてみたら、いきなり隣の人がたばこを吸い始めるとか、予期せぬオフェンスに見舞われることです。
ですから、店の喫煙環境を外部に分かりやすく表示する「表示義務」は法で課してもよいと思います。喫煙か禁煙かのどちらかにせよという規定です。また、店内で区切るなら一定以上の分離性能を確保しなさいという規制は正当だと思います。
ある程度大きな店舗であれば、喫煙席と禁煙席を設けて、一定性能以上のエアカーテンなどで空気をきちんと分離する空間分煙でもいいと思います。何らかの分煙設備を設けることができない小さな店は、全面禁煙か全面喫煙にすれば、事実上空間的な分離も達成されるわけですからね。
──6月5日に東京都が都議会に提示して公表した受動喫煙防止条例案では、飲食店は店の面積にかかわらず原則屋内禁煙(仕切られた喫煙室の設置は可)を定めている。
大屋:リスクがあるから禁止していいんだという議論をするなら、確かに面積による除外の発想もおかしいと思います。同じぐらいリスクがあれば何平米だろうと等しく規制対象にすべきですからね。
でも、一定以下の面積の店は空間分離や分煙設備を設けることが難しいから一律で“全面禁煙”を要求するというのは、選択肢を過度に制約していて不当であるといえます。
──様々な顧客サービスを提供する飲食店経営のビジネスチャンスを奪うことにもなりかねない。
大屋:そもそも、店主も従業員もすべて喫煙者で、子どもも入れない「全面喫煙店」を営んで、誰の人生を損なうというのでしょうか。また、そういうビジネスを許容したら他人にどんな損害を生じさせるのか、ビジネスモデルの自由という点からも問題です。
◆周囲に対する環境リスクは飲酒のほうがよほど危ない
──たばこの健康リスクだけが強調されているが、飲酒も同じだし、排気ガスなどによる環境汚染も深刻。日常生活のあらゆるリスクを排除していたらキリがない。
大屋:人によっては「たばこを吸わないとストレスが溜まって胃に穴があくから吸う」という人もいるでしょう。飲酒も同じです。肉体的、精神的に疲れたから飲むという人も多い。飲まなかったらストレスで胃に穴が開いて寿命が縮むかもしれません。
両方ともリスクがあるときにどちらを選択するかは本人の価値観の問題であって、本人に委ねるべき問題だというのが、自己決定権という最も重要な人権です。あらゆる人は平等に、自分がどういう人生を送るかを決める権利がある。そこで吸うか吸わないか、飲むか飲まないかは各人が判断すればいいことです。
確かに周囲の環境に対するリスクという点では飲酒のほうがよほど危ないでしょう。酔っ払いのケンカに巻き込まれることもあるでしょうし、泥酔した人が電車を止めたり器物を汚損したりすることもある。飲酒運転で他人の命を奪う事件も後を絶ちません。
我々が人生の楽しみとするものは、大体においてリスクを伴います。飲酒・喫煙だけでなく、山登りだって、時には海水浴で命を落とすことだってあります。
山に登るには必ずリスクも伴いますが、頂上から見る美しい景色というベネフィットとセットになっています。これをリスクがあるからと禁止してしまえば、エベレストの頂上からの絶景も二度と見られなくなる。
リスクがあるものをすべて禁止していったら我々の生活や自由な人生で何が残るのか。その先に残るのは自己決定の余地もない世界だということを、もっと真剣に考えるべきです。
──近年の日本は個人の喫煙マナー向上や事業者の分煙に対する自助努力を評価する声もある。わざわざ法規制を強化しなくてもいいのでは?
大屋:よく規制推進派の人たちは、「日本は欧米水準の受動喫煙規制に達していない」と決まり事のように言いますが、本当に欧米が正しいことをやっているのでしょうか。
本来、空間的分離という観点からみれば路上禁煙のほうが本筋で、建物内は表示で分離すればいいだけ。ところが、欧米の喫煙規制は概ね、建物内規制を先行させて路上を放置していますよね。その結果、喫煙者はそこらじゅうで歩きたばこをして、公道で吸い殻を落とすわ、火種も舞っているわで、危なくて仕方ありません。
受動喫煙は長い目で見れば健康リスクがあると言いましたが、火は人に当たればただちに危害にあたります。喫煙者同士が密集してケガするのは仕方ないにせよ、非喫煙者に火傷のリスクを与えているという意味では、路上喫煙のほうがよほど危険なのです。
その点、日本の屋外は歩きたばこや路上喫煙を禁止する自治体条例が先行して広まったこともあり、ずいぶん整備されてきました。たばこを吸わない人が安全・安心に歩けるということを重視するならば、日本のほうが優れている実感があります。
また、喫煙者自身もマナーを守って吸うようになっているし、屋外の喫煙場所であっても空間分離できるように喫煙所を作る対策も進んでいます。
──国や東京都の新たな法案が通ったとしても、受動喫煙対策のメリット・デメリットをしっかり検証し、今後も議論を続けていく必要がある。
大屋:どうせ喫煙者は少数派だし、限りなくリスクをゼロにする目的で規制の網を広げるのは、私は違う気がします。リスクはゼロかイチかで決め打ちするのではなく、適切にコントロールしなければなりません。ゼロにしようとしてベネフィットを失うのはバカバカしい。本来はとてもデリケートな問題なのです。
今後も科学の限界や我々の自己決定権とのバランスをきちんと意識して議論していくべきだと思います。