4月21日の記念日には「マリルージュの日」「錦通り・ニッキーの日」「川根茶の日」など、様々ありますが、中でも意外と知られていないのが「民放の日」。
終戦から約6年後の1951年(昭和26年)4月21日、ラジオ16社が民間放送初の予備免許を受けたことを記念して定められたものです。
日本民間放送連盟のHP「民放のあゆみ」によると、現在の日本の放送は広告収入を柱とする民間放送と、受信料を財源に運営される日本放送協会(NHK)の二元体制で成り立っているとのこと。その他、衛星放送やケーブルテレビ放送、有料放送も。
今回は第二次世界大戦後に解放された民間放送にスポットをあてます。
■ 1951年(昭和26年)9月1日にラジオ放送が開始
民放ラジオ16社が予備免許を受けた1951年(昭和26年)。この年の1月3日には、先に開局していたNHKラジオ第1放送(1925年7月開局)にて「第1回NHK紅白歌合戦」が放送されました。当時の紅白は年があけてからの放送だったんですね。
そして紅白の誕生から4か月後の1951年(昭和26年)4月21日にラジオ16社が予備免許を取得。同年9月1日に中部日本放送(現在のCBCラジオ)と新日本放送(現在の毎日放送)がラジオ放送を開始します。
日本初の民放ラジオ放送が行われたのは、中部日本放送でした。番組は「朝の調べ」という音楽番組で、開始されたのは9月1日の午前6時30分。当時アナウンサーだった宇井昇さんの第一声から始まったそうです。いったいどのような音楽が流されていたのか、選曲が気になりますね。ハードロックやヘビメタなどではないと思いますが……。
■ 日本で最初の商業番組やコマーシャルも
その後、午前6時55分に放送された番組は「服飾講座」。五金洋品が提供で、これが日本で最初の商業番組なのだとか。しかし、五金洋品は番組提供のみで、コマーシャルは流さなかったそうです。番組も服飾講座ではあるものの、第1回の放送はフェルラーリ作曲の「聖母の宝石」をバックに、アポリネールの詩「ミラボー橋」をアナウンサーの稲蔭千代子さんが朗読するという内容だったそうです。
午前7時になると「精工舎の時計がただいま7時をおしらせしました」と時報が流れ、こちらがコマーシャルの第1号。午前7時、正午、午後7時、午後10時の計4回の時報は精工舎の提供で流されました。時報に続き午前7時から放送されたのは「ニュース」。内容はサンフランシスコ講和会議に出席する吉田茂特命全権大使がハワイに着いたことを伝えるものだったといいます。
■ 1953年(昭和28)には日本テレビが開局
民放ラジオの初放送から遅れること2年、1953年(昭和28)2月にはNHKの総合テレビ本放送がスタート。そして同年1953年(昭和28)8月には日本テレビ放送網が民放初のテレビ局として開局。日本テレビの他、現在キー局となっているTBSは1955年、テレビ朝日とフジテレビは1959年、テレビ東京は1973年に開局します。
このように1950年代~60年代にかけて、各地で民放のAMラジオとテレビが開局。1969年にはFMラジオも加わり、テレビやラジオの民放が増えていったのです。
<参考・引用>
日本民間放送連盟「民間放送とは」
国立国会図書館「レファレンス協同データベース」
(佐藤圭亮)