がんになると、なぜかアルツハイマー病にはなりにくい――そんな一見ふしぎな関係が、医師や研究者のあいだで長年話題になってきました。
中国の華中科技大学(HUST)で行われた研究によって、そのナゾに迫る手がかりが見つかりました。
研究チームは、がん細胞が「シスタチンC」というタンパク質を血液中にたくさん放ち、その一部が脳に入り込んで、アルツハイマー病の原因候補とされるアミロイドβのかたまりを片づけさせている可能性が、マウスを使った動物実験で示されたのです。
いったい、がんが出すタンパク質はどのようにして脳の免疫細胞を動かし、アミロイドβの「ゴミ山」を減らしているのでしょうか?
研究内容の詳細は2026年2月5日に『Cell』にて発表されました。
目次
- がん患者はアルツハイマー病になりにくいという長年の謎
- がん細胞の出す物質が脳をアルツハイマー病から守っていた
- シスタチンCが開くアルツハイマー病治療の可能性
がん患者はアルツハイマー病になりにくいという長年の謎

アルツハイマー病は高齢者に多い認知症の一つで、もの忘れが増えたり、道に迷いやすくなったり、性格が変わったように見えたりする病気です。
進行すると、日常生活そのものが難しくなっていきます。
アルツハイマー病になると脳の中では、大きく二つの「異常な変化」が起こっていると考えられています。
一つは「アミロイドβ」というタンパク質がベタベタとくっつき合い、固まりになってたまることです。
これを「プラーク」と呼びます。
もう一つは「タウ」というタンパク質が変形し、神経細胞の中で糸くずのようなからまりを作ることです。
どちらも、神経細胞同士の情報のやり取りを邪魔し、やがて細胞そのものが死んでいきます。
今回の研究が主に注目しているのは、このうち前者、アミロイドβの塊(プラーク)です。
では、そのアミロイドβはどこから来るのでしょうか。
実は、アミロイドβは完全な「異物」ではなく、もともと脳の細胞が作っている大きなタンパク質が、切り分けられたときに生じる「切れ端」です。
ふつうは少しずつ作られ、少しずつ分解されて、量のバランスが保たれています。
しかし加齢や遺伝の影響などで、このバランスが崩れると、余ったアミロイドβが溶けきれず、小さな塊になっていきます。
これがさらにくっつき合って大きな塊(プラーク)になると、神経細胞にとって毒のように働くと考えられています。
脳には、このような「タンパク質のゴミ」を片づける係もいます。
それが「ミクログリア」と呼ばれる細胞です。
ミクログリアは、脳の中の免疫細胞で、細菌などの侵入者を攻撃したり、死んだ細胞の残がいを食べたりする、いわば「掃除屋さん兼警備員」です。
このミクログリアの表面には、「TREM2(トレムツー)」というスイッチのようなタンパク質がついています。
TREM2に特定の分子がくっつくとスイッチが入り、ミクログリアは「本気の掃除モード」に切り替わって、アミロイドβの塊などを積極的に飲み込んで分解します。
逆に、このTREM2の働きが弱い遺伝子変異を持つ人では、アルツハイマー病になりやすいことが報告されています。
しかし、今のところ「TREM2を安全にオンにしてくれる、治療薬として使いやすい都合のよい分子」はほとんど見つかっていません。
さて、この話とは一見関係なさそうですが、「がん」と「アルツハイマー病」のあいだには、昔から医師たちが気にしてきた不思議な関係があります。
カナダの神経科医ドナルド・ウィーバー氏は、この謎に長年ひっかかりを覚えてきたひとりです。
研修医だったころ、上司の病理学者から「アルツハイマー病の患者さんって、あまりがんになっていない気がする」と何気なく言われたのをきっかけに注目し始めました。
その後、自らも何千人ものアルツハイマー病患者を診てきましたが、「がんも経験している」と胸を張って言える症例は、ほとんど思い出せないと振り返っています。
その後、大規模な調査がいくつも行われました。
たとえば、2020年に発表された解析では、合計960万人以上の人のデータをまとめると、「がんと診断されたことがある人」は、そうでない人に比べて、その後アルツハイマー病を発症する割合が11%ほど下がっていたと報告されています。
統計に詳しい人は「がんで早く亡くなってしまうと、アルツハイマー病が出てくる年齢に達しないまま人生を終えるだけなのでは?」と思うかもしれません。
もちろん、そういうケースも多いでしょう。
しかし、がんで早くなくなることなど、数の幻の原因となる複数の偏りを点検した上でも「がんとアルツハイマー病が同じ人に起こることは少ない」という傾向はなお残っていたのです。
そこで浮かんでくるのが、「もし本当に守っているとしたら、どんな仕組みなのか?」という問いです。
がんとアルツハイマー病は、どちらも高齢になるほど増える病気で、細胞の増え方やエネルギーの使い方に共通点もあります。
さらに、がん細胞はたくさんのタンパク質を血液中に放出しており、その中には脳にまで届くものもあるかもしれません。
ならば、「がんが出す物質のどれかが、脳の中で何か良い働きをしているのでは?」という発想が出てきます。
そこで今回研究者たちは、「がんのある体から、脳へ何か“守りの信号”が送られているのではないか?」という長年の予想を科学的に検証することにしました。
がん細胞の出す物質が脳をアルツハイマー病から守っていた

がん細胞はアルツハイマー病から脳を守るような物質を放出しているのか?
だとしたらそれはどんな物質なのか?
答えを得るため研究者たちはまず、アルツハイマー病の特徴を再現した「モデルマウス」を用意し、そのマウスの体に、肺がん、前立腺がん、大腸がんという三種類の腫瘍をがん細胞を注射して1カ月ほど待ってアミロイドβの状態を調べました。
すると、ふつうならたくさん見えるはずのアミロイドβのプラークが、脳のあちこちで明らかに減っていることがわかりました。
どの種類のがんでも同じように、プラークの量も大きさも少なくなっていたのです。
記憶テストをしてみると、水の中に隠された足場の場所をおぼえる課題や、迷路で新しい通路を見つける課題でも、がんを持つマウスの方が成績がよくなっていました。
がん患者がアルツハイマー病になりにくいという人間での結果とつながるような現象が、種を超えてマウスでも見つかったのです。
次に研究者たちは、がん細胞を培養皿の中で育て、その細胞からにじみ出してきたタンパク質だけを集めた「がんスープ」をつくり、それをアルツハイマー病のモデルマウスに毎日注射してみました。
するとマウスの体内には腫瘍はできないのに、やはり脳のアミロイドβのプラークが減り、記憶テストの成績も良くなったのです。
この結果はマウスの脳を救っていたのは「がん細胞そのもの」ではなく「がん細胞が出す何らかのタンパク質」であることを示します。
では、その「犯人」はどのタンパク質なのか。
研究チームは、三種類のがん細胞に共通して多く作られているタンパク質に注目し、さらに「血液の中に分泌されていて」「アルツハイマー病と関係しそうなもの」という条件でしぼり込みました。
すると捜査線上に「シスタチンC」というタンパク質が浮かびました。
そこで研究者たちは「がんスープ」の元になるがん細胞でシスタチンCだけを作れないようにしてからスープを作り、それをマウスに試したところ、アミロイドβのプラークが減らなくなってしまったことがわかりました。
つまり「アルツハイマー病の脳を守っている主役候補は、シスタチンCだった」わけです。
次の疑問は、「そのシスタチンCが、本当に脳の中まで届いているのか」です。
脳と血液のあいだには「血液脳関門」というバリアがあり、多くのタンパク質はここを通り抜けられません。
そこで研究チームは、シスタチンCにある種の目印をつけ、どれくらい脳にしみ込んでいくかを測定しました。
その結果、シスタチンCは糖鎖(約10キロダルトン)と同じくらいの勢いで脳内に入りこむことがわかりました。
さらに脳の切片を染めて調べると、シスタチンCがアミロイドβのプラークにべったりと貼りついている様子も確認されました。
では、シスタチンCは脳の中で何をしているのでしょうか?
ここで登場するのが、前の章で説明したミクログリアと、そのスイッチ役であるTREM2です。
詳しい実験の結果、シスタチンCは「アミロイドβの毒性の強い小さなかたまり」にくっつき、「TREM2」を働かせるスイッチを入れることがわかりました。
イメージとしては、ゴミのかたまりと掃除係の手をつなげる「橋」のような役割です。
この橋渡しによって、ミクログリアはプラークの場所を見つけやすくなり、実際にプラークのまわりへ集まってきて、内部に取り込み、分解を始めます。
顕微鏡で見ると、シスタチンCを投与したマウスでは、ミクログリアの細胞の体が大きくふくらみ「仕事モード」の形になっていることも確かめられました。
簡単にまとめると「がん細胞 → シスタチンC → TREM2 → ミクログリア → プラーク分解」という流れになるわけです。
シスタチンCが開くアルツハイマー病治療の可能性

今回の研究の一番大きな意義は、「がんの人はアルツハイマー病になりにくいらしい」という、長年“統計の数字”として語られてきた現象に、分子レベルの説明の一つの候補が示されたことです。
体のどこかにあるがんがシスタチンCというタンパク質をたくさん分泌し、それが血液を流れて脳に入りこみ、TREM2というスイッチを通してミクログリアのゴミ掃除を強めます。
その結果としてアミロイドβのプラークが減り、記憶力もある程度守られる──という流れが、マウスの実験でかなりはっきりと示唆されました。
この研究は将来の治療法を考えるうえで重要なヒントをくれます。
現在のアルツハイマー病の薬は、「アミロイドβが新しくたまるのを防ぐ」「作られる量を減らす」といった方向が中心です。
それに対して、シスタチンCはすでにできてしまったプラークにくっつき、ミクログリアのTREM2を通じて「今あるゴミ山をどう片づけるか」に働きかけます。
研究グループを率いるルー博士らは、「体の外側にできたがんが分泌するシスタチンCが、脳のミクログリアを通じてすでにできてしまったアミロイド斑を分解させる。これは、これまでの“アミロイドがたまらないようにする”戦略とは違う、新しい治療の道を示している」とまとめています。
もっともアルツハイマー病と診断されたら「シスタチンCを注射しよう」と勝手に判断するのは危険です。今回の結果はすべてマウスでの実験であり、人間の脳でも同じことが起こるとはまだ言えません。またたとえシスタチンCが人間の脳内でミクログリアのお掃除能力を高める効果があったとしても、適切な量でなければ危険です。シスタチンCによってミクログリアがお掃除を頑張り過ぎて、脳にダメージを与えてしまう恐れもあるからです。
それでも、この研究は「がん神経科学」という新しい分野の広がりを象徴しています。
これまで人間は植物や細菌の作る成分を薬に転用してきました。
たとえば、最初の本格的な抗生物質として知られるペニシリンは、青カビが分泌する物質から見つかりましたし、マラリア治療に使われてきたキニーネは、南米のキナノキという樹木の樹皮に含まれる苦い成分が元になっています。
また、コレステロールを下げる薬として広く使われているスタチン系の薬は、カビの仲間がつくる物質からヒントを得て開発されたものです。
このように、「自然が偶然つくってしまった化学物質」を見つけてきて、人間が少し手を加え、病気の治療に役立てるという流れは、医学の歴史を通じて何度も繰り返されてきました。
今回の研究はそのあくなき探索に「がん細胞」が含まれ得ることを示します。
もしかしたら未来の薬局では、がん細胞由来の様々な薬が商品棚に並んでいるかもしれません。
元論文
Peripheral cancer attenuates amyloid pathology in Alzheimer’s disease via cystatin-c activation of TREM2
https://doi.org/10.1016/j.cell.2025.12.020
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

