心臓を「よみがえらせる」のではなく、「新鮮なまま保存し直す」。
一見矛盾するようですが、これまで“利用できなかった”心臓が移植に使えるようになるかもしれないという画期的な技術が登場しました。
アメリカのヴァンダービルト大学医療センター(VUMC)の研究によって開発されたREUP法(リアップ法)と呼ばれる新しい心臓保存手法では、停止したドナー心臓を無理に再鼓動させることなく、特別な酸素豊富な保存液で洗浄・冷却します。
この方法により心臓を“生きたまま凍らせた”ような状態で鮮度を長時間保ち、移植に適したコンディションで運び出すことが可能になります。
研究チームは既にこの技術を用いて提供心臓の移植に連続して成功しており、その有用性を示しています。
「動かさない」ことで心臓を救う――そんな逆転の発想は、移植医療においてどれほどの変革をもたらすのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年7月17日に世界五大医学雑誌の一角である『The New England Journal of Medicine(NEJM)』にて発表されました。
目次
- 「倫理 vs 実用性」――心臓移植を阻む2つの壁
- 心臓を冷やし、洗い、8時間保つ新技術
- 世界の移植医療を変えるリアップ法、そのインパクトと未来予測
「倫理 vs 実用性」――心臓移植を阻む2つの壁
心臓移植のドナーは従来、脳死ドナー(brain death donor)から得られるのが一般的でした。
脳死ドナーでは心臓は人工呼吸器などで拍動が保たれた状態で摘出されます。
しかしこれらの心停止後からの移植は時間がかかるため、移植心臓にダメージが蓄積してしまうというリスクがありました。
そこで近年2つの「末期患者の生命維持装置を停止させその後移植を行う方法」が実施されています。
1つは「体内常温灌流法(NRP)」と呼ばれる方法です。
この方法では末期患者の生命維持装置を意図的に停止させ、ドナーの心臓の停止を確認した後に、人工的に再起動させる過程が入ります。
心停止後数分、迅速に死亡判定が行われると同時に、体外循環装置を用いて心臓や臓器に血液を送ることで、臓器を健康な状態に保つことが可能です。
生命維持装置を停止させるタイミングを選ぶことで、移植のタイムラインをある程度設定することが可能になります。
(※もちろん患者の意思や家族の同意のもとに行われます)
ただこのとき、脳へと続く血管に絶対に血液が流れ込まないようにしなければなりません。
移植開始時点でドナーは既に死亡判定を受けており、処置が行われているタイミングでドナーは脳死や心停止に続く、より一般的かつ全身的な死へ向けてのプロセスを辿っています。
そこに人工的な装置で血液が脳に送り込まれれば、死への道順がキャンセルされてしまう可能性があります。
あえてわかりやすさのための極端な例を使えば、死亡判定後に脳に血液が流れ込み、医師たちが気付かぬうちに脳活動が回復してしまった場合、その状態で臓器の摘出が行われるという許容できない事態が起こり得ます。
そのためこの手法では脳に血液が行かないように厳重に脳への血管が封鎖されます。
この状態が成功すると、ドナーの脳には血液が届かないまま、心臓や他の臓器だけが移植可能な状態で維持されることになります。
ただこの方法には倫理的な負担がありました。
まずは先に述べた「脳への血流を意図的に遮断する行為自体が倫理的に問題だ」とする指摘です。
死亡判定が行われた「遺体を対象にしている」という一定のラインはあるものの、「意図的に脳へ血流を止める」という処置は、「脳に重大なダメージを与える行為」であり医学の理念の逆を行くのではないかという難しい疑問も浮かびます。
また法律上は「心停止が不可逆であること」が死亡判定の条件ですが、機械の力とはいえ心臓が再び動き出すことに対して「それは本当に死んだと言えるのか?」という指摘もありました。
さらに心臓から脳へと続く血管は毛細血管を含めて無数にあるため、主要な血管を締め付けても僅かながらに脳への血流が起こるとする意見もありました。
実際、NRP法はイギリス、スペイン、ベルギー、オーストラリアなど一部の国では許可され、実施されていますが、ドイツなど多くのヨーロッパ諸国や一部のアメリカの州では許可されていません。
NRPを許可する国は、この方法によって移植可能な臓器が増え、多くの命を救うという利益を優先しています。
一方、許可しない国は、上述の倫理的な問題を重視し、人道的見地から拒否しているのです。
(※日本では、そもそも循環死後の心臓提供が認められておらず、NRP法も現在の法律や倫理的な基準から見て受け入れられる状況にはありません。)

もう一つのアプローチは心臓用保存装置を使用します。
生命維持装置を意図的に停止させ、心臓停止を確認し死亡認定するまでは同じです。
しかしこちらの方法では心臓を体外に取り出して専用の灌流マシン(通称「心臓の箱」)に繋ぎ、移植まで心臓を拍動させながら維持する方法です。
先ほどの体内常温灌流法(NRP)が患者の体内で心臓を再起動する方法であるとしたら、こちらの方法は移植する心臓を一度患者の体内から外部に取り出し、そこで再起動させるものとなります。
ドナー体内で心臓を動かさないため倫理的負担はやや軽くなりますが、この手法を実現させるための装置が非常に高価で操作も複雑です。
また心臓を生かすと言っても体内にあったときとは状況が大きく異なるため、保存状態は決して完ぺきとはいえず、その状態で心臓の再起動を行うのはリスクを伴います。
さらにこの方法では心臓以外の臓器を同時に維持できないため、他の臓器提供にはつながりにくいという制約も指摘されています。
以上のように、体内常温灌流法(NRP)は倫理面で、心臓用保存装置は実用面でハードルがありました。
結果として、循環死ドナーから提供可能な心臓であっても活用されずに多くの患者が心臓移植を待ちながら亡くなっている状況が続いています。
このような現状を変えるには、低コストで簡便かつ倫理的に受け入れやすい方法で停止した心臓を保存・利用する技術が求められていたのです。
心臓を冷やし、洗い、8時間保つ新技術

倫理的な課題と経済的な課題を両方クリアするには、一体どのような方法を取ればよいのか?
そこで開発された技術が、「迅速拡張高酸素保存法(Rapid recovery with Extended Ultra-oxygenated Preservation)」、略称でREUP法と呼ばれる方法です。
この手法も生命維持装置を停止させるなど、ドナーの死亡が医学的に確認された直後から処置が開始されます。
まず心臓につながる上行大動脈をクリップでしっかりと閉じ、心臓を他の臓器や脳の循環から完全に切り離します。
これにより、心停止後の臓器回復処置中に血液や保存液が脳に流れ込む危険を確実に防ぎました。
次に行ったのが、心臓を「新鮮なまま保存する」ための重要なステップです。
研究者たちは、酸素を豊富に含ませた特別な低温の保存液を準備しました。
この保存液は、赤血球(酸素を運ぶ血液細胞)やカルジオプレジアという心筋保護薬などを含む複雑な溶液で、心筋に十分な酸素と栄養を供給するように設計されています。
研究チームは、この保存液を体外循環回路にセットして、ゆっくりと心臓に送り込みました。
送り込む際の圧力は、平均で約80mmHgという人間の体内で血液が流れるのに近い自然な圧力に設定されました。
およそ10〜12分間かけてじっくりと送り込まれた保存液は、停止した心筋の隅々にまで十分に行き渡り、心筋全体が摂氏4℃という冷たい温度で安定して保存される状態を作り出しました。
この丁寧な処置によって、心臓は拍動しないまま、新鮮さを保ったまま長時間安定した状態を維持できるようになりました。
十分な処置が終わった後、心臓は速やかに体外へ取り出され、氷で冷やされた状態で移植先の病院へ搬送されました。
では、この新しい方法の効果はどのようなものだったのでしょうか?
実際に研究チームは2024年11月から、このREUP法を使った心臓移植を最初に3例で行いました。
その結果、3名の患者全員が問題なく新しい心臓を受け入れ、手術後の心臓機能も非常に良好でした。
移植後に拒絶反応が見られることもなく、手術中や術後の合併症も全く起きませんでした。
さらにチームはその後もこの手法で心臓移植を続け、2025年7月までに20件近い移植手術を行っています。
いずれも従来の方法と同等か、それ以上に良好な経過をたどっています。
特筆すべきは、この方法で保存した心臓が4時間以上、最長で8時間にわたり移植可能な状態を保つことができた点です。
これまで心臓移植では、提供後約4時間以内に移植することが推奨されていましたが、その時間が倍近く延びたことで、遠くの病院にも心臓を運べるようになり、より多くの患者を救える可能性が高まっています。
ヴァンダービルト大学のチームは、この特殊な保存技術を活用して、実際に最大10時間まで心停止した心臓を移植に適した状態で維持できることも確認しています。
これにより提供可能な心臓の数を大幅に増やし、多くの命を救う道が開けました。
また、この方法はシンプルで低コストなため、世界中の医療施設での普及が期待されています。
今回の技術開発を主導した研究者の一人、アーロン・ウィリアムズ医師は、「この方法は、倫理的な問題を抱えた従来法と、高額で複雑な従来法の両方を解決するために考案された方法です。まさに心臓移植医療のゲームチェンジャーとなるでしょう」と述べています。
実は他の研究グループも、別の新たな手法を用いて心臓移植の課題に挑戦しています。
米デューク大学のチームは乳児の心臓移植で新しいアプローチを試しました。
彼らは心臓が停止した直後に摘出し、手術室で短時間だけ拍動を再開させて心臓の状態を確認し、その後急速に冷却保存して運ぶ方法を用いました。
この方法を使い、3か月の乳児への心臓移植に成功しています。
こうした新しい技術は、「心臓を再び動かさずに移植に役立てる」という点でREUP法と共通しており、心臓移植の新たな方向性を示しています。
世界の移植医療を変えるリアップ法、そのインパクトと未来予測

今回の研究によって、「心臓を再び動かすことなく、停止した状態のまま新鮮に保存する方法が実現可能である」ということが示されました。
これは単に科学的な成功だけでなく、心臓移植をめぐる倫理的な壁を乗り越える可能性を持っています。
心臓移植と聞くと、多くの人は漠然とした不安や心理的抵抗感を覚えます。
特に、これまで主流だった脳死ドナーからの移植では、「まだ動いている心臓を取り出す」というイメージが、どうしても拭えなかったからです。
また体内常温灌流法(NRP)では体内で再び動き出した心臓や脳への血流を防ぎ脳の復活を阻止するなど、倫理的に厳しいと判断される手段がとられていました。
しかしREUP法では、ドナーの心臓を再び動かすことなく「止まったままの状態」で鮮度を保つという全く新しい方法を採用しました。
これにより倫理的負担が大きく軽減され、しかも心臓の長期保存が実現しました。
また、この方法のもう一つの大きなメリットが経済的な負担の軽減です。
従来の体外保存法では、高額で複雑な専用装置が必要であり、実施できる病院や地域が限られていました。
REUP法は専用の高価な装置を使わずに、比較的安価でシンプルな設備を用いて心臓を保存することが可能です。
これは特に発展途上国や資金面・人手面に制約がある施設にとっても、心臓移植を実施する道を開くものとなります。
このように倫理的・経済的な障壁が下がることで、心臓移植の提供数が大幅に増えると期待されます。
ヴァンダービルト大学が実際に、この保存技術によって数年で数百件規模の新しい移植のチャンスを作り出していることが、それを裏付けています。
また、REUP法の技術は心臓だけに限らず、他の臓器への応用可能性も秘めています。
特に腎臓や肝臓、肺など、心臓と同じく循環停止後に急激に機能が低下する臓器にも、この技術を応用できる可能性があります。
今後の研究が進めば、REUP法を使った保存技術によって、これまで以上に多くの臓器が移植可能となり、多くの命を救える可能性が広がります。
さらに、この技術の小児への応用も期待されています。
子どもにとって適した臓器を得るのはさらに難しく、提供可能な臓器が増えれば救える子どもたちも増えるでしょう。
移植医療の未来を考えると、この「再起動しない超酸素保存」という新しい考え方は、今後の医療のあり方そのものを大きく変える可能性があると言えるでしょう。
元論文
Rapid Recovery of Donor Hearts for Transplantation after Circulatory Death
https://www.nejm.org/doi/10.1056/NEJMoa2500456?logout=true
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部