アメリカのジョンズホプキンス大学(Johns Hopkins University)で行われた研究によって「暗黒物質(ダークマター)」が、ビッグバンよりもさらに前の時代に既に生まれていた可能性が示されました。
一般には宇宙の誕生はビッグバンから始まったと考えられていますが、今回の研究が提唱する新たなシナリオは、宇宙が熱く高密度になる前の「真空のエネルギー」が支配するインフレーション期において、目に見えないエネルギー場が揺らいだ結果、自然に暗黒物質が形成されるというものです。
この画期的な理論は、暗黒物質が通常の物質とは全く異なる出自を持つ可能性を示唆しており、これまでの宇宙観測や実験で暗黒物質が見つかりにくかった理由をも説明できるかもしれません。
果たして私たちは、これまで考えられてきた宇宙誕生の常識を塗り替えるような、この驚くべき仮説の証拠を宇宙の中に見つけることができるのでしょうか?
研究内容の詳細は『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- 暗黒物質は本当にビッグバンの産物なのか?
- なぜ暗黒物質は他の物質より先に宇宙に存在したのか?
- 新理論が示唆する宇宙論の革命
暗黒物質は本当にビッグバンの産物なのか?
夜空を見上げると無数の星や銀河が輝いていますが、私たちが目にするこうした光を放つ物質は、宇宙全体のわずか20%にも満たないと言われています。
実は、宇宙の大部分を占めるのは「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれる謎の物質なのです。
この暗黒物質という言葉を聞いたことはあっても、具体的にそれが何であるかを説明できる人はほとんどいません。
なぜなら、暗黒物質は名前の通り光を発することも反射することもなく、私たちの目や望遠鏡では全く見ることができないからです。
その存在はただ重力の影響としてのみ現れ、銀河がなぜ回転し続けるのか、なぜ銀河団内の銀河が飛び散らずにまとまっているのかといった、宇宙の不思議な現象を説明するために考え出されました。
こうした不思議な現象を見つけるたびに、科学者たちは「見えない重力の源」が宇宙には隠されているのではないか、と考えるようになったのです。
では、暗黒物質はどこからやってきたのでしょうか?
これまでの主流な考え方は、暗黒物質はおよそ138億年前のビッグバンの直後に生まれたというものでした。
宇宙が誕生した瞬間は極めて高温で高密度のエネルギーが満ち溢れ、通常の物質(私たちを構成する原子や素粒子)だけでなく、暗黒物質も一緒に生成されたと考えられたのです。
まさに「宇宙の残りかす」とでも呼べるような存在として、ビッグバン以降ずっと残ってきたとされてきました。
科学者たちは長年、この説に基づいて暗黒物質を地上の実験で捕まえようと試みましたが、今のところ成功していません。
地下深くに埋められた高精度の検出器や、巨大な粒子加速器を使った実験でも、暗黒物質の痕跡を一切捉えることができなかったのです。
「暗黒物質がビッグバン由来なら、これほど探しても見つからないのはなぜだろう?」という疑問が、科学者の間で強まっていました。
こうした状況を打開するため、最近、ジョンズホプキンス大学の研究者トミ・テンカネン博士らが、これまで誰も考えなかった大胆な仮説を提唱しました。
それは、「暗黒物質はビッグバン以前に作られた可能性がある」という驚くべきアイデアでした。
ただ注意すべき点があります。
「ビッグバン以前」というと宇宙誕生前を意味すると思うかもしれませんが、違います。
現代宇宙論では「ビッグバン」という言葉は2通りの意味で使われています。
一つ目は、「宇宙の始まりそのもの」を意味する場合。
実際、私たちが子どもの頃に読んだ科学雑誌や教科書には、「宇宙はビッグバンという大爆発から始まり、その名残が宇宙背景放射として今も残っている」と説明されていました。
しかし、現代宇宙論の最前線では、このビッグバンという言葉の意味合いが微妙に変化しています。

今の宇宙論では、「ビッグバンは宇宙の始まりそのものではない」という考え方が一般的なのです。
現代宇宙論では、ビッグバンというのは、宇宙が高温高密度の「火の玉」状態になった瞬間、つまり「宇宙が熱くて密度が濃い状態になった時点」を指します。
これが2つ目のより現代的なビッグバンの解釈です。
そして重要なポイントは、その「高密度な火の玉状態」よりも前に、宇宙は既に存在していたと考えられていることです。
では、「火の玉状態」以前の宇宙はどうなっていたのでしょう?
現代宇宙論によれば、宇宙の歴史は「インフレーション」という出来事から始まりました。
インフレーションとは、宇宙がごくごく小さいサイズから、わずかな瞬間で膨大なスケールに膨らんだ急膨張の現象です。
風船を一瞬で宇宙規模にまで引き伸ばすような、激しい【空間そのものの膨張】です。
このインフレーション中の宇宙には、粒子も星も銀河もなく、ただ「真空エネルギー」と呼ばれる特殊なエネルギーが存在するだけでした。
ここで言う真空エネルギーとは、普通の物質とは違い、空間そのものが持つエネルギーのことです。
この真空エネルギーが、インフレーションという猛烈な膨張を引き起こしました。
風船を膨らませるには内部に空気の分子という物質を注入する必要がありますが、このインフレーションが引き起こしたのは物質ではなく空間に存在する真空エネルギーそのものです。
そのためこの段階の宇宙は「物質の概念と連動する意味での高密度状態」ではありません。
なにしろ通常の物質としての粒子は一切存在せず、真空エネルギーが空間全体に広がっているだけなので、「粒子の密度」という概念自体が存在しない状態なのです。
では宇宙はいつごろビッグバンが起こる「高密度状態」になったのでしょうか?
それは、このインフレーションが終了する瞬間に起こります。
インフレーションが終わると、それまで空間全体を満たしていた真空エネルギーが一気に粒子へと変換されます。
イメージするなら、空間そのもののエネルギーが爆発的に粒子へと姿を変え、一瞬にして宇宙は熱くて密度の高い状態に切り替わるのです。
では、なぜこの真空エネルギーが粒子に変わってしまったのでしょうか?
その秘密は、真空エネルギーの不安定さにあります。
インフレーション期の真空エネルギーは、例えるなら「丘の頂上にそっと置かれたボール」のようなものです。
一見すると静かで安定しているように見えますが、わずかなきっかけがあれば劇的変化を起こします。
実際、宇宙誕生の瞬間の真空エネルギーも、ほんの些細な量子ゆらぎによって、この安定性を失ったと考えられています。
真空エネルギーが安定を失うと、それまで空間を満たしていたエネルギーは一気に解放され、別の状態へと移り変わります。
このエネルギー解放の過程で、エネルギーの一部が「粒子」という形へと変換されました。ここで重要なのは、アインシュタインの有名な方程式『E=mc²』です。
エネルギー(E)は質量(m)に変換可能であり、エネルギーが大量に放出されると、それが粒子という具体的な形となって現れるのです。
この真空エネルギーから粒子が現れる現象こそが、「再加熱(リヒーティング)」と呼ばれています。
再加熱とは、まさにインフレーションが終わった瞬間に起きた「宇宙の再誕生」の出来事と言えるでしょう。
それまで物質のない「空っぽ」の空間だった宇宙が、熱くて密度の濃い「物質で満たされた状態」へと劇的に転換されたのです。
再加熱で現れた粒子は、非常に高温で高密度の火の玉状態を形成しました。
これが現代宇宙論で言うところの「ビッグバン」です。
つまり、ビッグバンは宇宙が無から突如として現れた出来事ではなく、真空エネルギーという空間のエネルギーが粒子に姿を変え、宇宙が物質で満たされた出来事だったのです。
言い換えれば、私たちが昔から耳にしてきたビッグバンとは、宇宙の始まりそのものではなく、インフレーションという急膨張が終わった後、宇宙が粒子で満たされて高温高密度な「火の玉」状態になったその瞬間を指すのです。
そこから先の宇宙の物語は、これまで知られてきたものと同じです。
高温で密度の濃い宇宙は、少しずつ膨張して冷えていき、最初は素粒子、やがて原子が作られ、恒星や銀河が形成されて、最終的に私たちが生きている現在の宇宙が生まれたわけです。
つまり、現在の一般的な宇宙の歴史の理解は、
①インフレーション(真空エネルギーによる急激な膨張)
↓
②再加熱(ビッグバンと呼ばれる高温高密度状態の開始)
↓
③宇宙の膨張と冷却
↓
④恒星や銀河の形成
↓
⑤現在の宇宙
という流れなのです。
私たちの宇宙の真の始まりを理解するためには、もはやビッグバンだけを見ていては足りません。
その前の時代、インフレーションという宇宙の「出生前」の出来事を見つめることが必要なのです。
そしてこれまでの理論では、暗黒物質も他の物質と同様にビッグバンの時に空間から出現したと考えられていました。
しかし新たな理論は暗黒物質に限って言えばビッグバン以前のインフレーション時代に、他の物質に先駆けて誕生したと提唱されています。
ではなぜ暗黒物質だけフライングして宇宙に誕生することになったのでしょうか?
なぜ暗黒物質は他の物質より先に宇宙に存在したのか?

なぜ暗黒物質だけフライングして宇宙に誕生することになったのでしょうか?
テンカネン博士らの研究が導き出した新理論によれば、その理由は、宇宙誕生前の特殊な状況にありました。
従来の理論では、宇宙のすべての物質はビッグバンの瞬間、つまり宇宙が高温高密度の「火の玉」状態になったときに誕生したと考えられていました。
しかし今回の研究では、暗黒物質はその「火の玉状態」が始まるよりも前、インフレーション期にすでに作られていた可能性が示されたのです。
インフレーション期の宇宙は、いわば「粒子が存在しない純粋なエネルギーの場」でした。
そのエネルギーの源となったのが、「スカラー場」と呼ばれる特別なエネルギー場です。
このスカラー場というのは、空間全体に均一に広がっているエネルギーの海のようなもので、量子的な効果で小さく揺れ動きます。
インフレーションが進むと、スカラー場は宇宙全体でほぼ一定の状態(安定した状態)に落ち着きます。
このとき、スカラー場は絶えず細かな「量子ゆらぎ」を起こしていました。
量子ゆらぎとは、一見均一に見えるエネルギーの海の中にほんの小さな凹凸がランダムに生じる現象です。
今回の研究では、このヒッグス粒子とは異なる未知のスカラー粒子が暗黒物質を構成している可能性を考察しています。
ビッグバンで生まれた物質(例えば電子や陽子)は電磁気力など様々な力で相互作用しますが、ビッグバン前に生まれた暗黒物質はそれらとは無縁で、インフレーションで存在していた重力だけと相互作用する――すなわち重力以外には姿を現さないというわけです。
やがてインフレーションが終わると、宇宙が急激に膨張することで、この小さなゆらぎは拡大され、特定の場所にエネルギーが偏った領域を作り出します。
こうして生じたスカラー場のエネルギーの偏りが、後に暗黒物質としての役割を果たすようになったのです。
さらに興味深いのは、このスカラー場由来の暗黒物質の誕生は、特別な条件や設定を必要としない自然なプロセスだという点です。
研究者たちが数式を使って計算した結果、スカラー場のエネルギーゆらぎはインフレーション期に「安定した平衡状態」を作り出し、その後の宇宙にとってちょうど良い量の暗黒物質が自動的に生成されることがわかりました。
言い換えれば、スカラー場が宇宙の初期状態として自然に存在したならば、暗黒物質が宇宙に満ちている現在の状態はごく自然な結果であり、細かな調整をする必要は一切ないということなのです。
従来の多くの暗黒物質理論では「初期にこれくらい暗黒物質があったはず」という仮定を置かなければならなかったのに対し、このモデルでは特別な設定を加えなくても暗黒物質が適切な量存在する計算結果が得られたのです。
研究チームは「過去の研究者たちはこの最もシンプルな可能性を見落としていた」と指摘しています。
また驚くべきことに計算の結果、このスカラー場由来の暗黒物質モデルは、現在の宇宙で観測される暗黒物質の分布や宇宙背景放射(ビッグバンの名残の微弱な光)にも矛盾しないことが示されました。
特に、暗黒物質と通常の放射(光子など)のゆらぎの関係(アイソカーブ摂動)も、宇宙マイクロ波背景放射の厳しい観測制限内に収まることが確認されています。
さらに、この仮説が正しいかどうかを検証する方法も存在します。それは宇宙の構造形成(銀河や銀河団ができる過程)が通常想定されるより“盛ん”になるということです。
暗黒物質がインフレーション期から存在した影響で、わずかながら銀河の分布に特徴的なゆがみ(ゆらぎの痕跡)が残ると考えられます。
言い換えれば、暗黒物質が本当にビッグバン以前に生まれたのなら、現在の宇宙における銀河の配置パターンが「その証拠」を秘めているはずなのです。
こうした結果から、研究チームは暗黒物質がビッグバン以前から存在し得ることを最も簡潔なモデルで実現してみせたと言えます。
しかもこのシナリオでは、暗黒物質が通常の物質と重力以外で相互作用しない(だからこそ実験で見つけにくい)という性質が自然に導かれます。
新たな未知の力や複雑な粒子理論を仮定する必要もありません。
「余計なもの」を足さずに謎を説明できるという点で、このモデルのシンプルさは大きな魅力であり、説得力となっています。
新理論が示唆する宇宙論の革命

今回の研究では、「暗黒物質がビッグバン以前のインフレーション期に生まれた可能性がある」という全く新しい仮説が示されました。
この新しい仮説が本当に正しいなら、私たちは暗黒物質に対する理解を根本的に見直さなければなりません。
なぜならこれまでは暗黒物質を「ビッグバンと共に誕生した物質」だと当たり前のように考えてきたからです。
もし暗黒物質が本当にビッグバン以前から存在していたとすれば、私たちが知っている宇宙の歴史は書き換えられることになります。
そして暗黒物質がそのビッグバン以前の時代から存在していたとすれば、暗黒物質はまさに宇宙で最も古く、しかも安定的な存在となります。
イメージすると、私たちが住む宇宙はビッグバンというイベントをきっかけに誕生した巨大な建物であり、暗黒物質はその建物が建つ前からそこにあった、土台のようなものだということです。
この仮説が正しいなら、科学者が今まで地上の実験施設や巨大な加速器を使って暗黒物質を見つけようとしても全く成果が出なかった理由も説明がつきます。
なぜなら、ビッグバンの前から存在する暗黒物質は、私たちが普段接する通常の物質とは根本的に異なる性質を持っている可能性があるからです。
通常の物質は電磁気力などさまざまな力を通じて相互作用し、光を放ったり、吸収したりします。
しかし、ビッグバンよりも前から存在していた暗黒物質は、宇宙誕生以降に発達したこれらの力とは無縁であり、唯一、重力を通じてしか存在を示さない物質なのかもしれないのです。
まさに、私たちがこれまで暗黒物質を見つけられなかったのは、単純にその探し方が間違っていた可能性があるということです。
この仮説は、科学者たちがこれから暗黒物質を探すための新たな戦略を立てる上でも重要なヒントとなります。
これまでとは違い、地球上の実験ではなく宇宙の観測が暗黒物質の謎を解く鍵になると考えられるようになったのです。
幸いなことに、私たちは今まさにその痕跡を探すための観測技術を手に入れようとしています。
欧州宇宙機関(ESA)が運営する「ユークリッド(Euclid)」宇宙望遠鏡は、宇宙に存在する数十億もの銀河を高い精度で観測し、その位置や形状を詳細にマッピングします。
こうした宇宙の精密地図を作ることで、宇宙のどこに暗黒物質が集まっているのか、その集まり方に独特のパターンがないかを詳しく調べることが可能になります。
研究チームは、ユークリッド望遠鏡の観測結果が出揃えば、この新たな理論を直接検証できるだろうと期待しています。
もちろん、この新しい理論が真実かどうかはまだわかりません。
しかし、もし暗黒物質が本当にビッグバン以前から存在していたことが確認されれば、私たちが教科書で学んできた宇宙の歴史や物理学の常識は大きく書き換えられるでしょう。
かつてインフレーションやビッグバンすらも「荒唐無稽」だと考えられていた時期がありました。
そういう意味では「宇宙論の常識」は移り変わるものだととも言えるでしょう。
この大胆な仮説が科学的な真実として語られる日がいつか来るかもしれません。
元論文
Dark Matter from Scalar Field Fluctuations
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.123.061302
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部