重力そのものを利用して計算を行うコンピューター――SFでしかありえないような未来像に、物理学者たちが小さな現実の一歩を刻みました。
ベルギーのブリュッセル工科大学(ULB)で行われた研究によって、量子もつれを暴く式をヒントに、「時空が動くかどうかを一発診断する鋭い不等式」が報告されたのです。
この不等式は「ベル不等式が量子もつれが起きているかを判定するように、時空の曲率変化による通信成功率の変化を判定する」のです。
何やら突拍子のない話に思えますが、研究者たちは重力レンズのように曲がる通信経路を利用できれば、理論上、従来は光速と因果順序に縛られていた情報リレーの壁を超え、「重力を計算資源にする時空コンピューター」さえ理論的には可能になると述べています。
あえて大胆に流れを簡略化すれば「質量を動かす ➔ 時空がゆがむ ➔ 信号の通り道が変わる ➔時空が動くかどうかを一発診断する鋭い不等式が反応➔ 「壁越え」は動く重力が原因だと数学で確定 ➔ 重力を ON/OFF すると通信結果を操作できる ➔ 因果の並びをねらって変えられる ➔ 重力が情報のスイッチになる ➔ 重力を計算資源に利用できる」という感じになるでしょう。
重力を“計算資源”として利用するSF「時空コンピューター」の基礎理論を覗いてみませんか?
研究内容の詳細は2025年05月13日に『Physical Review A』にて発表されました。
目次
- “曲がる時空”が限界を突破する
- 重力と時空が計算機になる日
- 重力は次世代チップになり得るか
“曲がる時空”が限界を突破する

1964年、物理学者ジョン・ベルは量子力学の奇妙な性質を検証する方法として「ベルの不等式」を提唱しました。
この不等式は、「隠れた古典的な仕組みで説明できる現象なら、ある確率の壁を超えることはない」という制限を与えるものです。
例えば離れた場所にいるアリスとボブがそれぞれコインを投げ、ある条件下で表裏の結果が一致する確率を考えます。
古典物理でどんな工夫を凝らしても、その一致確率は最大でも75%(3/4)にしかなりません。
ところが量子力学でもつれた粒子(量子もつれ)を使うと、この確率は約85.4%にまで高まります。
ベルの不等式が示す「3/4の壁」を超えてしまうのです。
この壁の違反こそが「古典的な隠れた変数では説明できない量子もつれが存在する」という動かぬ証拠になります。
言い換えれば、ベル不等式は量子もつれの証明書なのです。
では重力の世界ではどうでしょうか?
アインシュタインの一般相対性理論によれば、大きな質量が動くと時空(空間と時間の構造)が歪み、その歪み(曲率)は光や信号の伝わる順序にも影響を与えます。
重い天体の移動に伴い、ある出来事の「前後関係」が変化してしまう可能性さえあります。
これまでこの「時空の変化」と「情報の流れ」の間にどんな制限や法則があるか、厳密に結びつける数学的枠組みは存在しませんでした。
研究チームによれば、「時空の変化と情報の流れを結ぶ厳密な数式は、これまでなかった」のだそうです。
ベルの不等式という明快な指標が量子の不思議を暴いたように、重力と情報にも同様の指標を作れないかという発想が、この研究の出発点でした。
「ベル不等式は量子もつれの証明書。ならば時空の曲がりにも証明書を作れないか?」と考えたのです。
こうした疑問に答えるため、研究チームは一般相対論版のベルテストとも言える理論的実験をデザインしました。
その議論は想像上の極端なシナリオから始まります。
例えば、離れた二人の通信を邪魔するように、Aさん(アリス)が惑星を丸ごと動かしてBさん(ボブ)とCさん(チャーリー)の間に割り込ませる――まるで光の経路をねじ曲げるような大胆な操作を思い描いてみましょう。
このように人為的に時空(重力場)を操作できれば、情報が伝わる順序を変えたり、通常では届かない信号を届かせたりできるかもしれません。
しかし一般相対論の範囲でそれが本当に可能なのか、可能だとすればどんな条件で起きるのか、明確な数学的基準はありませんでした。
「物理の神秘で計算するなら、一般相対論だって使ってみようじゃないか」――量子の次は重力だ、というわけです。
研究チームは一般相対論下での因果関係(出来事の順序)の変化を捉える理論ゲームを構築し、静的な時空では決して超えられない勝率の上限を導き出すことにしました。
重力と時空が計算機になる日

提案されたのは「メビウスゲーム」と名付けられた多人数同時参加型の思考ゲームです。
「メビウスゲーム」は、時空の“ねじれ”を暴くかくれんぼだと思ってください。
舞台には 6 人以上のプレイヤーが並び、結び目をひとひねりした“メビウスのはしご”の上を情報が渡っていきます。
ルールは単純――審判が毎回ランダムに「送り手」と「受け手」の 2 人を指名し、送り手だけにこっそり 0 か 1 のビット x を教え受け手はほかの仲間と光速以下の通信だけを頼りに、この隠しビットを当てればチームの勝ちです。
ここで効いてくるのが因果順序、つまり「誰のメッセージが誰に先に届くか」という時間的ならびです。
アインシュタインの特殊相対論が支配する静かな宇宙では、光より速い連絡はできませんから、送り手→受け手の一本道を外れる“ショートカット”はありません。
数学的に突き詰めると、この静的な並びを前提にした最善策でも 12 回に 1 回は必ず外す ことが示され、統計上の勝率は 11/12――およそ 91.7 % が絶対の天井になります。
これが「11/12 の壁」です。
ベル不等式で言えば古典理論が 75 %の壁を越えられないのと同じ役割を果たしています。
重要なのは、この「11/12の壁」が一般相対論の世界では破れる可能性があるという点です。
もし何らかの方法でゲームの勝率を91.7%より高く叩き出せたなら、それは静的な因果構造では説明がつかない、すなわち背後で時空自体が動的に変化したことを意味します。
研究チームは、この11/12を上限とする不等式こそ、重力場(時空の曲率)の変化を暴き出す新しい指標になると考えました。
言い換えれば、この不等式は「勝率11/12の壁を越えられたら、そこには必ず質量が動いている」と告げているのです。
実際に上限を超える違反が観測されれば、その瞬間に質量の移動(例えば大きな物体を動かしたか、重力波が通過したか)が起きて時空が変化した証拠となります。
ではなぜ“メビウス”なのか?
紙テープをそのまま輪にすれば内側と外側の二面があり、人はどちらか一面しか歩けません。これは因果順序が一方向に固定された静的時空のイメージです。
ところがテープを半回転ひねって輪にすると、内側と外側がつながったメビウスの帯になり、歩いているうちにいつの間にか裏へ抜け、やがて表に戻ってきます。
もしプレイヤーの誰かが巨大な質量を動かして近くの時空をわずかに曲げられたら、光や信号が進む道筋もこの帯のようにねじれ、通常は閉ざされている“裏面ルート”――送り手から受け手へ直接届かないはずの経路――が一瞬だけ開通します。
そのときゲームの統計は 11/12 を突破し、「時空の並びが途中でねじれた」というサインが残るのです。
要するに、91.7 %を超える成績が観測された瞬間、「誰かが巧妙にプレイした」のではなく、「そもそも盤面=時空が動いた」ことが分かる――それがメビウスゲームのキモです。
理論上はブラックホール近くでの質量移動や通過する重力波が“裏面ルート”を開ける候補ですが、まだ実験方法は模索段階です。
にもかかわらず、この 11/12 の数値はベル不等式と同じく装置や測定の詳細を一切問わずにチェックできる“赤信号”となり得ます。
未来に本当に壁破りの統計が出たなら、そのとき私たちは「重力を使った情報処理」というSFの扉がわずかに開いた瞬間を目撃することになります。
研究チームは論文中で、この一般相対論版ベルテストの実験可能性についても議論しています。
現実に違反を達成するには、プレイヤーの一人(例えばアリス)が自分の重力場を操作できるような極端な状況が必要になるでしょう。
とはいえ著者らは、「一般相対論的な違反は実現可能である」と示唆しつつ、そのためにはさらに厳密な相対論的解析が不可欠だと述べています。
今後の課題として、完全な一般相対論的フレーム(重力理論フレーム)でこのゲームを記述し直すこと、そして実際に重力の効果で不等式違反が起きるか定量的に検証することが挙げられています。
重力は次世代チップになり得るか

この研究は一見すると非常に理論的ですが、情報科学と重力理論を結ぶ新たな地平を開くものとして注目されています。
ベルテストが量子情報革命の礎となったように、今回の成果は重力を使った情報処理という未知の領域への第一歩かもしれません。
「重力を『計算資源』に」という表現が示す通り、具体的な装置モデルを前提にせずにテスト結果だけで因果順序の動的性を判定できる点が特徴です(想定シナリオ自体は、巨大質量を自在に動かすという極端なものです)。
これは現実的な実装がすぐ可能という意味ではなく、理論上の上限や原理的な可能性を明らかにしたということです。
実際、著者らは論文中で「動的な時空は静的背景では不可能な情報処理タスクを可能にするだろうか?」と問いかけています。
これはちょうど、量子計算が古典計算では不可能なタスクを実現するかを問うのに似ています。
重力によって因果順序を変えられれば、現在のコンピューターでは解けない問題を解決できる可能性があるという大胆な発想です。
さらに興味深いことに、この不等式の違反は重力波の検出とも関係しうると指摘されています。
違反が観測されること自体が曲率変化のサインですから、例えば遠方で発生した重力波がゲーム空間を通過して時空をわずかに揺さぶれば、それによって勝率が上昇し11/12の壁を越える可能性があります。
著者らも「この手法は重力波の検出に使えるかもしれない」と述べ、将来的な応用に言及しています。
重力波検出器といえば巨大なレーザー干渉計が思い浮かびますが、もしかすると未来には「多人数ゲーム」の統計から重力波を炙り出す、といった奇抜な技術も登場するかもしれません。
本研究には第三者の専門家も注目しており、フランス・パリ=サクレー大学のパブロ・アリギー教授(量子計算・量子重力研究者)は「ブラックホールの縁でタイムスロウ(時間の遅れ)を利用して計算する、そんな極端なアイデアにも一般的な物差しができた。」とコメントしています。
例えばブラックホール近辺では強烈な重力場によって時間の進み方が遅れるため、これを利用した「重力計算」のSF的アイデアさえあります。
しかし従来そうした議論を評価する統一的な指標はありませんでした。
今回提案された不等式は、そうした突拍子もないアイデアにも客観的な基準を与えてくれる可能性があります。
言い換えれば、「重力で計算する」とはどのような現象であり何が可能で何が不可能なのか、議論するための共通言語が生まれつつあるのです。
哲学的な視点でも、この研究は私たちに新たな問いを投げかけます。
イベント(出来事)とは何か?――因果関係の順序が揺らぎうる世界では、「ボタンを押す」「信号を送る」といった日常的な出来事でさえ、その意味を再定義しなければならないかもしれません。
私たちは普段、時間の流れと因果の矢印を当たり前の前提として物事を考えています。
しかし重力と情報を絡めたこのゲームの中では、その前提が破られる場面が出てきます。
時空の構造が動的に変化することで、原因と結果の関係が一時的に曖昧になるような事態さえ想定されるのです。
こうした極限状況を突き詰めていくことで、逆に「イベントとは何か?」という基本的な哲学問いに新たな光が当たるかもしれません。
最新の成果として報告されたこの「メビウスゲーム」は、重力と情報科学という異色のコラボレーションから生まれました。
「重力で動く“時空コンピューター”は作れるのか?」という大胆な問いかけに対し、まずは「それを判断する基準」が提示されたと言えます。
今後この不等式が実験的に検証され、もし現実世界で違反が観測されるようなことがあれば、そのとき私たちは科学史に残る大きな一歩を目撃することになるでしょう。
計算のために重力そのものを利用する――そんな未来が果たして訪れるのか、想像するだけでも胸が躍ります。
元論文
Möbius games and other Bell tests for relativity
https://doi.org/10.1103/PhysRevA.111.052211
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部