科学の世界で「何も起きなかった」ということが、実は大きな意味を持つ場合があります。
イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドン(ICL)で行われた研究によって、「『光子が出なかった』と判定された瞬間 を選び出すことで、従来の冷却限界をさらに押し下げられることが実証されました。
ごく大雑把に言えば「物体からときどき光が出る➔物体から光が出ない「無の状態」を選んで測定する➔観測の影響が物体に及びその瞬間だけ物体のエネルギーが下がる➔無を使った冷却達成」というわけです。
物体からの光子を意図的に見なかったことにするだけで物体の冷却が達成できるというと信じがたく思えますが、量子の世界では観測が物理現象に直接介入して物体の冷却を達成できるのです。
この量子のトリックにより、これまで限界があると考えられていた振動の冷却を一歩先に進めることができる可能性が開けました。
研究内容の詳細は『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- レーザー冷却の限界と量子の逆転発想
- 見ないことで物体の温度を下げる
- ゼロ光子が拓く超低温テクノロジーの地平
レーザー冷却の限界と量子の逆転発想

忙しい人向けのざっくり解説
教室で机を叩くと必ず音がするけれど、もし“音がしなかった瞬間”だけを選んで並べたら、まるで机が自分から静かになったように感じるかもしれません。
今回の研究は、まさにその量子版です。物体から時々飛び出す光子を見張り、光が一つも現れない刹那を検出すると、その瞬間に球の振動エネルギーそのものが本当に下がることが分かりました。
“無”を測るだけで冷えるなんて、古典物理では起こりえない逆転現象です。この技術ではレーザーで球を照らし続けながら単一光子検出器で「ゼロ」を見つけるたびに、その静けさを“確定”させるように働きかけます。
言い換えれば「エネルギーが少ない状態を観察すると、物体のエネルギーも本当に下がる」という、かなりおかしなことが実現するのです。
研究者たちはこの不思議な効果を利用すれば、量子コンピューターを邪魔するノイズをさらに抑えたり、宇宙の根本法則をテストしたりできると期待しています。
私たちはふだん、何かを「測る」ときには、目に見えるものや耳で聞こえるものなど、“存在するもの”に注目します。
しかし実は、“存在しないこと”からも多くの情報を得ることができます。
鍵が見当たらないときに「どこかに置き忘れた」と気づいたり、空を見て雨が降っていないことで「傘はいらない」と判断したりするのが、その身近な例でしょう。
こうした「何もない」ことに気づく力は、量子の世界でも強力な武器になります。
物質を極限まで冷やし、振動や熱運動を抑えることは、現代の量子科学で重要な課題です。
温度が下がるほど原子や小さな物体の動きは穏やかになり、量子コンピューターや量子ネットワークの動作に必要な繊細な制御がしやすくなります。
特に振動を基礎的な量子状態(運動エネルギーが最低の「量子基底状態」)まで冷却することが目標となります。
そのため、物体の振動を冷やす手法としてレーザー冷却が広く使われています。
レーザー光を物体に当てて散乱させることで、光がエネルギーを運び去り、結果として物体の振動(熱運動)が冷やされるしくみです。
レーザー冷却の技術のおかげで、光の圧力で原子を宙に閉じ込めたり、鏡のような機械振動子をほぼ量子基底状態まで冷却したりすることが可能になりました。
しかし通常のレーザー冷却には限界もあり、ある程度以上には振動を小さくできない場合もあります。
研究チームは、この限界を打破するための鍵として量子計測に着目しました。
量子の世界では、観測(計測)を行うことで対象の状態に影響を与えることができます。
でたらめに動いていた物体も、上手に計測すれば、その情報を使って「揺れをもっと抑えてあげる」ことが可能になります。
このとき重要なのが「何を見たか」だけでなく「何も見なかったか」という情報です。
研究チームは「光の粒(光子)が1つも検出されなかった」という測定結果(ゼロ光子検出)に注目し、それを利用することで振動の冷却効果を高められるのではないかと考えました。
見ないことで物体の温度を下げる

研究チームは、このアイデアを確かめるために、特殊なガラス製の球体を用意しました。
この球のふちを赤いレーザー光が何千周も回り続ける間、ガラス自体がわずかに震えて超音波のような振動(音波)が生まれます。
光と振動は同じ場所に長く閉じ込められるので、微小球の中でも光や音の波が球の内壁に沿って何度も回り続け、エネルギーが逃げにくい状態になります。
その結果、光が球を出ていくときの挙動を詳しく調べれば、球内部の振動(エネルギー)の高い低いを知ることができるのです。
準備ができると研究チームは、ガラス球にレーザーを当てつつ、観測を開始しました。
ここで鍵となるのが、先ほど述べた「ゼロ光子検出」です。
光検出器として単一光子検出器という非常に高感度なセンサーを用い、一瞬ごとに「散乱光の光子が一個検出されたか、それとも一個も検出されなかったか」を判定できるようにしました。
その観測結果と同時に、別の手法(ヘテロダイン計測という方法)で球内部の音波の振動の強さ(温度に対応)を測定しました。
その結果わかったのは、「光子が一つも検出されなかった」瞬間の音波は、通常よりも静か(振動が小さい)になっていたということです。
逆に「光子が一つ検出された」瞬間には、音波の振動はいつもより大きく(うるさく)なっていました。
つまり、散乱光が出なかったという“何も起きなかった”観測結果によって、音波の振動が普段よりも抑えられていたのです。
この結果は一見すると奇妙ですが、光の散乱と音波の振動の間に相関関係があることを考えれば説明できます。
光と音が強く結びついたこの実験系では、散乱光子が「ゼロだった」という観測情報を得た時点で、「音波のエネルギーがより低い状態だった」と状態が更新される(確からしくなる)と理解できます。
共同第一著者の一人であるエヴァン・クライヤー=ジェンキンスさんは「最初はこの結果にとても驚きました。しかし、我々の実験では光と音が相関しているため、測定で得られた情報によって音波の状態をさらに冷却できることがわかったのです」と説明しています。
さらに興味深いことに、光を測定しない場合(いわば「目を閉じて何も見ない」場合)は、通常のレーザー冷却によって音波の振動が冷やされていましたが、光子を一個検出してしまった場合には音波がかえって熱く(振動が増えて)しまいました。
これに対し、光子を検出しなかった場合には音波の振動がレーザー冷却単独よりも冷えた状態になっていたのです。
つまり、量子の世界では「何も起きなかった」という結果が得られたときに限り、振動エネルギーを従来以上に下げる(冷却する)ことができたということになります。
ゼロ光子が拓く超低温テクノロジーの地平
今回の成果は、物理学者たちに「何もないことも、実はとても意味がある」というメッセージを突きつけています。
共同第一著者のジャック・クラークさんも「何かが存在しないと気づくことは、その存在に気づくのと同じくらい多くを語ってくれるのです」と述べており、日常生活でも雨が降っていないことや鍵が見当たらないことから多くの情報を得ているのと同じだと説明しています。
このゼロ光子検出という量子計測の技術を使えば、対象の振動エネルギーを従来の限界を超えて下げられる可能性が示されたわけです。
今回の研究論文はアメリカ物理学会の学術誌「フィジカル・レビュー・レターズ (Physical Review Letters)」に2025年2月に発表され、量子測定と制御の分野に新たな道を拓く成果として注目されています。
研究チームは「ゼロ光子検出によって量子系を基底状態まで冷やし込むことで、量子コンピューターや量子ネットワークの開発、さらには物理の基本法則の検証にも役立つだろう」と期待しています。
今後、この「何も見えなかった」ことを利用する量子のトリックが、様々な分野でどのように応用されていくのか、さらなる研究が待たれます。
元論文
Enhanced Laser Cooling of a Mechanical Resonator via Zero-Photon Detection
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.134.073601
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部