もし、あなたの憂うつな気分が、パートナーとの“キス”によって移ってしまう可能性があるとしたら──?
一見信じ難い話ですが、イランのシャヒード・ベヘシュティ医科大学(SBMU)で行われた研究によって「口腔内細菌の共有」がメンタルヘルスに影響する可能性が浮かび上がりました。
あなたとパートナーの“気分”は細菌を介してどのように連動しているのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年05月15日に『Exploratory Research and Hypothesis in Medicine』にて発表されました。
目次
- 口の中の小宇宙が、脳までも揺らす
- キスで気分が細菌と一緒にコピーされる
- “愛のキス”は薬か毒か──見えてきたメカニズム
口の中の小宇宙が、脳までも揺らす

近年、口腔内の細菌叢(マイクロバイオーム)の乱れが、自閉症や認知症、パーキンソン病から不安・抑うつ状態に至るまで、さまざまな神経・精神疾患と関連していると報告されています。
実際、BDI-II(21項目の抑うつ自己評価テスト)などの臨床評価で「中程度のうつ傾向」が確認された若年成人では、特定の口腔内細菌が増減しているという研究もあり、Prevotella nigrescensやNeisseria属など一部の菌が増えていたとの報告があります。
また、口腔内の細菌叢は歯磨きや食習慣、喫煙など個人のライフスタイルによって大きく変動します。
こうした知見から、「お口の中の微生物が私たちのメンタルヘルスに影響を及ぼすのではないか」という考えが注目され始めています。
一方で、夫婦や家族など親密な関係にある人同士は、驚くほど生理的リズムが同期(シンクロ)することが知られています。
たとえば夫婦では、心拍数や睡眠パターン、ストレスホルモン(コルチゾール)の日内リズムまでも似通ってくるという報告があります。
人と人は感情を共有するだけでなく、生理的なリズムやホルモン分泌までも影響を与え合う可能性があるのです。
その一因として近年注目されているのが、キスや食事の共有などを介して起こる体内細菌の伝播です。
そこで研究チームは、新婚カップルを対象に「半年間の追跡観察」を行い、口腔内細菌の変化とうつ・不安症状(自己記入式のスコアが示す中程度の不調)がどのように関連するかを調べることにしました。
「ふたりが親しく暮らすうちに口の中の細菌がうつり、それが気分まで似てくるのでは?」という予測は正しかったのでしょうか?
キスで気分が細菌と一緒にコピーされる

親密な相手から細菌叢をもらうと、気分まで同調してしまうのでしょうか。
謎を解明するため、研究者たちはまず新婚の夫婦1,740組を対象にスクリーニングを行い、その中から「一方のパートナーが自己評価テスト(BDI-II:21項目の抑うつ自己評価テスト、BAI:21項目の不安自己評価テスト)で中程度の抑うつ・不安スコアを示し、不眠も併発している(以下、DA表現型と呼びます)、もう一方がメンタル面で健康」という組み合わせの夫婦268組を選び出しました。
選ばれたカップルは結婚から平均6か月ほど経過しており、全員が同居しています。
この半年追跡の観察研究(実質的には前向き観察コホート)では、一方を“健康な配偶者群”268名、他方を“DA表現型の配偶者群”268名として解析を行いました。
研究開始時(結婚約半年時点)と6か月後(結婚約1年時点)の2回にわたり、両者の抑うつ度(BDI-II)、不安度(BAI)、睡眠の質(PSQI:0~21点で評価)、唾液中のコルチゾール値、そして口腔内細菌叢の構成を測定しています。
その結果、当初はメンタルが健康だった配偶者の指標に明らかな悪化が認められました。
うつ・不安のスコアや睡眠の質がいずれも悪化し、6か月後には症状を持つパートナー(DA表現型)に近づいていたのです。
特に唾液コルチゾールの変動が顕著で、健康だった配偶者の平均コルチゾール値は10.4 ng/mLから17.5 ng/mLへと有意に増加しました。
一方、DA表現型の配偶者はもともと39 ng/mLほどと高く、6か月後にも39 ng/mL前後で統計的に有意な変化は見られませんでした。
さらに注目すべきは口腔内の細菌構成です。
健康群の口腔細菌叢が大きく変化し、パートナー(DA表現型)の口腔内環境に似通っていきました。
言い換えれば、半年間の共同生活を通じて夫婦のお口の微生物コミュニティが“クローン化”のように近づいた形です。
実際、片方がDA表現型であるカップルでは、もともと健康だった配偶者の口内フローラがパートナーのフローラを鏡のように反映する現象が確認されました。
この細菌叢の変化はストレスホルモンである唾液コルチゾールの動きや抑うつ・不安のスコア悪化と明確に連動し、統計的にも有意な相関を示しています。
メインの結果としては、DA表現型の口腔内においてクロストリジア類(Clostridia)、ベイヨネラ属(Veillonella)、バチルス属(Bacillus)、ラクノスピラ科(Lachnospiraceae)といった菌が健康群より顕著に多く検出されました。
そして重要なのは、こうした菌がパートナーの健康だった口の中にも増えていたことです。
一方で、不眠の重症度との相関解析では、フソバクテリア(Fusobacteria)など別の菌群も関連が示唆され、総じて口腔内細菌の多様な変化が見られました。
これらの細菌は脳機能や免疫系への影響が指摘されていますが、論文では「blood–brain barrier(血液脳関門)を直接損なう可能性」など、あくまでも仮説ベースであり、確定的に断言する段階ではありません。
さらに女性配偶者のほうが男性よりも細菌叢の変化やメンタル指標の悪化が大きかった点も興味深いです。
健康だった側のコルチゾール値が急上昇したことは、パートナーの不調に引きずられる形でストレスが活性化した可能性を示唆します。
こうした結果は「相手の落ち込んだ気分を感情面だけでなく生物学的にも共有してしまう」シナリオを支持しますが、因果関係までは断定できないため、慎重な解釈が必要です。
“愛のキス”は薬か毒か──見えてきたメカニズム

1つ目の考えられるメカニズムは、口腔内マイクロバイオームと脳をつなぐ経路です。
論文中では「血液脳関門(脳を守るバリア)の働きを 直接ゆるめてしまう可能性がある(may directly compromise the blood–brain barrier)」と仮説が提示されています
口内で増殖した一部の菌が産生する物質や炎症シグナルが血流に乗って全身に巡り、脳のバリアを突破して神経系に干渉する可能性があるというわけです。
(※ただこれは現段階では仮説であり十分に検証されていません)
2つ目は、口から腸へと至る「口腔—腸—脳軸」と呼ばれるネットワークを通じて神経伝達や免疫調整に影響し、間接的に脳機能を変化させるシナリオも考えられます。
今回検出されたクロストリジア類やラクノスピラ科の菌は腸内細菌としても知られ、短鎖脂肪酸など神経伝達や免疫に影響する代謝物を放出することがあります。
そうした物質が増えることで脳内の神経伝達物質のバランスが乱れたり、慢性的な炎症が脳にダメージを与えたりして、結果的に抑うつや不安を誘発する可能性があるのです。
しかし一方で、「ニワトリが先か卵が先か」の問題も残ります。
つまり、細菌が気分を落ち込ませたのか、それともパートナーの不調に伴うストレス環境が細菌叢まで乱したのか、因果関係はまだ断定できません。
日々身近な相手のケアに追われることで生活リズムが崩れたり、心理的ストレスが増えたりすれば、それ自体がうつ悪化の一因になりえますし、ストレスホルモンの増加は体内の微生物バランスを変えてしまうことも十分ありえます。
論文でも「キスによって本当にうつや不安傾向が伝播したのかどうかを断定するには、さらなる検証が不可欠だ」と強調しています。
今後、介入試験などで細菌叢を意図的に操作することで気分が改善・悪化するのか検証できれば、因果の有無が明らかになるでしょう。
それでも今回の知見は、パーソナライズド医療(個別化医療)や予防医学の観点から興味深い可能性を示唆しています。
もしパートナー間の微生物伝播がメンタルヘルスに影響するのであれば、今後は心の健康管理に「細菌」の視点を組み込む必要が出てくるかもしれません。
たとえば、うつ病の治療や予防において本人だけでなく家族ぐるみで生活習慣や口腔ケアに取り組んだり、プロバイオティクス(善玉菌)による介入を検討したりといった、新たなアプローチが考えられます。
何より、この研究から浮かび上がるのは「結婚相手を選ぶ」ということは「その人の細菌叢を選ぶ」ことでもあるというユニークな視点です。
人生のパートナーを選ぶとは、実は相手の体内に棲む無数の微生物たちも含めて受け入れることだ――そんな風に考えると、日々のキスの意味が少し違って見えてくるのではないでしょうか。
元論文
Oral Microbiota Transmission Partially Mediates Depression and Anxiety in Newlywed Couples
http://dx.doi.org/10.14218/ERHM.2025.00013
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部