アスペルガー症候群という症状は、近年ネット上では、主に空気が読めない人という意味でよく聞く単語になりました。
私たちは、なんとなくその場の雰囲気や相手の様子を見て、話し内容を理解したり、話し方に変化を付けています。
真面目な会議中にずっとヘラヘラしているということはないですし、偉い人にタメ語で話しかけるということも普通はしません。
「お腹空かない?」と聞かれて、自分の空腹状態を聞かれているのではなく、一緒にご飯に行こうと誘われているのだと理解します。
ただ、それをどうやって使い分けているのか? というと難しい問題で簡単には説明できません。
アスペルガー症候群という症状が広く注目を集めるようになったことで、私たちはこうした自然にできるコミュニケーション行動の背景に何があるのか、意識を向ける機会が増えてきました。
そんな中で興味深い報告があります。
近年、自閉スペクトラム症(ASD)の子どもが「方言をあまり使わない傾向がある」という指摘が、日本の言語研究・発達心理学の分野から報告されているのです。
家族や地域の人が自然に使っている方言を、ある子どもだけがまるで使おうとしない、というのは非常に不思議な現象です。
この現象にはいくつかの興味深い論点があります。そもそも方言と共通語の違いとはなんなのか? ASDが方言の使用を避けることにはどんな意味があるのか? ここには人のコミュニケーションの背後にある、これまで見えてこなかった重要な特性が隠れているようにも思えます。
本記事では、この不思議な現象について、いくつかの研究報告をもとに詳しく解説します。
目次
- ASDの特性と、なぜ方言を使わないのかという問いの出発点
- “空気のある言葉”が苦手な理由
- 成長すると逆に方言を使い始める人がいる
ASDの特性と、なぜ方言を使わないのかという問いの出発点
ASD(Autism Spectrum Disorder:自閉スペクトラム症)とは、発達の過程で現れる神経発達症のひとつで、主に社会的コミュニケーションの困難さ、対人関係のつまずき、言語の使い方の偏り、そして興味や行動のこだわりといった特徴が見られる症状のことです。
近年では、知的障害を伴わない軽度のASDや、アスペルガー症候群もこの枠組みに含まれています。
そして実はこのASDの児童について、日頃から接している教育者や親たちから、彼らは方言を使わないという報告がたびたび上がっていたのです。
そこで言語発達支援を専門とする弘前大学教育学部の松本敏治教授(当時)は2013年に、青森県を中心とする津軽地方の特別支援学校で、ASD児と定型発達児の間の「方言語彙の使用頻度」関する学術的な調査を行いました。
津軽弁の語彙44語の使用状況を評価したところ、定型児が平均して119語(13人)を使用したのに対し、ASD児はわずか6語(4人)しか使っていなかったのです。
この現象について、定量的に差が示されたのはこの報告が最初のようです。
これだけはっきり結果が示されたことで、松本教授の研究チームは「なぜASDの子どもは方言を使わないのか?」という疑問について、さまざまな可能性を検討しました。
ASD児が方言を使わない理由について、松本教授の研究が検討したのは、以下の5つの仮説です。
- 音韻・プロソディ障害説:音声の聞き取りや発音の問題で方言が使いにくいのではないか。
- 終助詞意味理解不全説:方言特有の語尾や助詞の意味が理解できないのではないか。
- パラ言語理解不全説:抑揚や語調など、言葉以外の音声的ニュアンスが捉えられないのではないか。
- メディア媒体学習説:方言を話す周囲の人とのコミュニケーションより、共通語中心のテレビ・ネット環境から学習する傾向が強いため、自然に共通語を話すようになったのではないか。
- 方言の社会的機能説:方言が持つ親密さや距離感の調整といった社会的意味を理解・運用するのが難しいのではないか。
このなかでも最も有力とされたのが「方言の社会的機能説」です。
まずこの問題の鍵として、「方言」と「共通語」にどんな違いがあるのかを考えてみましょう。
共通語とは、学校教育やテレビ、インターネットなどで広く使用される全国的な言語形式で、構造や語彙が比較的一定です。
一方、方言とは、特定の地域で話される言葉の変種であり、単語や言い回し、イントネーションに独自の特徴が見られます。そして、方言はどういう場面で使われるのかを考えると、「親密さ」「地元意識」「空気の共有」といった社会的意味を担っている可能性が見えてきます。
社会言語学や語用論(言葉の意味でなく、どう使うかを論じた理論)の観点では、方言は話者の親密さや帰属意識、心理的距離などを調整する役割を持ち、文脈依存的に運用されるものとされています。
たとえば、親しい友人との会話では方言を自然に用いる一方、改まった場面や目上の人との会話では共通語に切り替えるといった言語行動は、方言が単なる語彙の選択以上の「社会的ふるまい」として機能していることを示しています。
つまり方言は単なる地域独特の言い回しというだけでなく、「誰に」「どんな場面で」「どういう気持ちで」使うかが強く問われる言語形式と言えるのです。
実際に、松本教授の研究でも、ASD児は共通語は話すのに、方言だけを極端に使用しないという非対称な傾向が示されました。このことは、方言の使用が単なる言語知識ではなく、相手の意図や場の空気を読む能力に深く関わっている可能性を示しています。
“空気のある言葉”が苦手な理由
一方で、別の角度からASDの言語理解に迫った研究があります。
早稲田大学・中央大学・東京学芸大学の研究チーム(篠原康明・内田真理子・松井智子、2023)は、ASD児が日本語のピッチアクセント(たとえば「雨(あめ)」と「飴(あめ)」の違い)をどの程度識別できるかを実験的に検証しました。
彼らの研究によれば、ASD児は音の高さ(F0)や音の長さ・強さといったいくつもの音の特徴をまとめて聞き取り、そこから“何を言いたいのか”を理解する精度が、定型発達児よりも有意に低いことが示されました。
「語尾の上げ下げ」(例:「行くの?」「行くの!」)や、「飴/雨」のようなピッチアクセントについて、ASD児は音の違いを識別できていても、「意味の違いとして認識・運用する力」が弱いことが示されたのです。

似たような事例で、中国語(特に北京語や広東語)のような複雑なピッチパターンで異なる意味を表現する言語では、ASD児童は使用に困難を抱える可能性が示唆されています。中国語には1声〜4声( mā・má・mǎ・mà)のような明確なピッチパターンの違いがありますが、ASD児童はこれを区別することは出来ても抑揚のニュアンスを“意図”として読み取ることが苦手であり、これが会話のズレを生みやすくしているといいます。
この結果は、ASD児が方言を理解・使用しにくい理由として、言葉の意味や文脈に関する理解だけでなく、抑揚や語調といった音声の特徴そのものを聞き分けたり、適切に使い分けたりする能力にも困難がある可能性を示すものです。
多くの方言は語尾のイントネーションや微妙な抑揚の違いに意味が込められており、こうした感覚的な言語使用にASD児が困難を感じている可能性があるのです。
この2つの研究は、方言使用に関するASDの特性を、それぞれ異なる角度から掘り下げています。
また、ASD児が共通語に親しみやすい理由として「テレビやネットを通じて触れる言語が共通語である」点も無視できないと考えられます。ASD児童は、一方向的で繰り返し確認ができるメディアやネットの情報を好む傾向があります。そのため、自然に方言を使わず共通語のみを話すようになる可能性も否定できないのです。
成長すると逆に方言を使い始める人がいる
ここまでの話は、ASD児童は方言を使わない傾向があるというものでしたが、逆にある年齢を境に方言を使わなかったASDの人が、地元の方言を話すようになったという事例も確認されるようになりました。
そこで2019年に、弘前大学の松本敏治教授と菊地一文氏はこの問題について新たな研究を実施しています。
この研究では、8歳から23歳のASDと診断された5名を対象とし、それぞれが方言を使用し始めた年齢と、その前後に見られた対人スキルの発達状況を、55項目からなる質問票を用いて分析しました。
その結果、5名すべてにおいて、方言使用の開始とほぼ同時期に、意図理解・会話力・模倣・共同注意といった社会的認知スキルの発達が起きていたとわかったのです。
特に方言を使い始めた時期の前後で、これらのスキルが集中的に獲得・発達していたことが確認され、研究ではこの点を「方言の使用が、単に言語形式の問題ではなく、対人スキルの発達と深く関わっている可能性」を示す証拠としています。
また、当人たちに行った自由記述のアンケートでは、方言使用のきっかけとして、「クラスメイトとの関係の変化」「集団活動への参加」「信頼できる他者との関係の構築」など、当人が安心して他者と関わることができるようになった環境の変化が影響しているという報告が多く見られました。
つまり、ASDの子どもたちが方言を話し始めるには、対人スキルの発達と、それを促すような環境条件の両方が関わっていたのです。
こうした事例を見ていくと、私たちが普段は意識することのない、言語の意味や役割が見えてきます。
方言は単なる地域ごとの訛りや言い回しのクセだと認識している人は多いでしょう。
しかし、ASDの児童が、方言で話すことを避けるという現象や、信頼して話せる相手を見つけたり、対人スキルが向上すると方言を使うようになるといった現象は、方言の使用が単に知識や習慣の問題ではなく、社会性の発達や対人関係のあり方と結びついていることを示しています。
今回の研究はASDの人たちに関する報告ですが、コミュニケーションの問題で悩む人達は大勢います。
こうした事例の研究は、私たちが意識していないコミュニケーションの裏に潜む疑問を紐解くのに役立つのかもしれません。
元論文
自閉症スペクトラム障害児・者の方言不使用についての理論的検討
https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/records/2487
自閉症の方言使用に関する事例的検討
https://www.jstage.jst.go.jp/article/uekusad/11/0/11_5/_article/-char/ja/
Perception of Japanese pitch accent by typically developing children and children with autism spectrum disorders(PDF)
Click to access ShinoharaEtAl2023_ICPhS.pdf
https://y.shinohara.w.waseda.jp/assets/files/ShinoharaEtAl2023_ICPhS.pdf
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部