アメリカのデューク大学(Duke)で行われた研究によって、ヒトとチンパンジーのあいだにわずか4文字しか違わないヒト特有のDNA配列をマウスに移植しただけで脳が平均6.5%も大型化し、さらに神経回路の働き方まで変わることが明らかになりました。
このヒト特異的DNA断片は塩基「4文字」の違いでヒトでだけ進化した領域であり、そのごく小さな差異が脳の大きさだけでなく神経回路ネットワークの特性にまで影響を及ぼしていたのです。
近年の研究で人類の脳を飛躍的に進化させた「知恵の実遺伝子」が複数あることがわかってきましたが、あらたな知恵の実遺伝子はたった4文字の違いに由来していました。
しかしたった4つの塩基がどのようにして幹細胞の増殖スケジュールを組み替え、複雑な脳ネットワークを生み出すのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年5月14日に『Nature』にて発表されました。
目次
- 人類だけが“大脳3倍”になった理由を追え!
- 4文字の置き換えでマウス脳が巨大化
- “塩基4つ”で回路まで変わる――脳進化の新シナリオ
人類だけが“大脳3倍”になった理由を追え!

ヒトの脳は霊長類の中でも際立って大きく、とくにチンパンジーとの共通祖先から分かれて以降、その大きさは約3倍にも拡大しました。
なぜ人間だけがこれほどまで脳を大型化できたのか、その進化のメカニズムは長らく謎のままでした。
ヒトと他の霊長類のゲノムを比較すると、タンパク質をコードする領域にはほとんど違いがない一方で、非コード領域には人類で特有に変化した部分が数多く存在します。
特にヒト加速進化領域(HAR)と呼ばれる短いDNA断片は、ヒトとチンパンジーの分岐後に急速に塩基配列が変化した部位で、これまでに約3000カ所が知られています。
HARの多くは発生を制御するスイッチ(エンハンサー)として働き、脳の発達に関連する遺伝子の近傍に位置することが報告されています。
このためHARの変化が人間の脳を進化させた手がかりではないかと期待されています。
(※これまでにもヒト固有の遺伝子をサルなどの動物に組み込むことで脳を巨大化できることが示されてきました。)
今回注目されたのは、ヒト加速進化領域(HAR)の一つであるHARE5というDNA領域です。
HARE5は染色体10上にある619塩基対の配列で、その中の4カ所がヒトでのみ変異していることが知られています。
HARE5は脳の発生に重要なWntシグナル経路の受容体FZD8遺伝子のエンハンサーとして機能し、マウス胚で神経細胞の産生を促進することが以前の研究で示唆されていました。
しかしヒト型HARE5が具体的にどのように脳の成長に影響するかはまだ分かっていません。
そこで本研究では、ゲノム編集技術を用いてマウスのHARE5領域をヒト型配列に置き換え、その効果を詳しく調べました。
4文字の置き換えでマウス脳が巨大化

調査にあたって研究チームはまず、マウスの胚のゲノム中に、人間のヒト加速進化領域(HAR)の1つであるHARE5配列を組み込んだマウスを作製しました。
そして生まれた改変マウスを育てて観察すると、ヒト型HARE5を持つマウスは通常のマウスに比べて脳(大脳皮質)が平均で6.5%ほど大型化していることが分かりました。
特に脳の最も外側の層(新皮質)の体積が増加し、神経幹細胞である放射状グリア細胞(ラジアルグリア)の増殖が著しく活発化していました。
遺伝子解析の結果、ヒト型HARE5とチンパンジー型HARE5のわずかな配列差(4カ所の塩基変異:1文字変化が4カ所ある)のうち、特に最初の2つがエンハンサー活性を大きく高めていることも突き止められています。
なお、脳が大きくなった改変マウスで学習能力や記憶力が向上したかどうかについては、現時点では明らかになっていません。
さらに研究チームは、ヒトの脳組織を模したオルガノイド(いわゆる「ミニ脳」)を用いた実験も行いました。
ヒト型HARE5を導入したオルガノイドとチンパンジー型HARE5を導入したオルガノイドを比較すると、チンパンジー型HARE5を持つオルガノイドでは神経幹細胞(ラジアルグリア)の数が少なく発達も遅いことが確認されました。
これは、ヒト型HARE5が神経幹細胞の増殖を強く促進し、より多くのニューロンのもとを作り出す効果を持つことを裏付ける結果です。
加えて、オルガノイドの解析からは、HARE5がFZD8遺伝子を介してWntシグナルの伝達タイミングや強度を調整し、最終的に幹細胞の増殖や分化を加速する可能性が示唆されました。
このエンハンサー配列が発生途中の脳内で神経幹細胞の挙動を微調整することで、成体の脳がより大きく複雑になる一因となっていると考えられます。
“塩基4つ”で回路まで変わる――脳進化の新シナリオ

今回の研究で明らかになったのは、ヒト特異的なエンハンサー配列が脳の発生プログラムを微調整し、結果としてより大きく高度な脳をもたらす仕組みです。
ヒト型HARE5を持つマウスでは、胎児期の神経幹細胞が通常より長く自己増殖し、その後に産生されるニューロン(神経細胞)の量も増加しました。
このようにしてニューロンの総数が増え、大脳皮質が厚みと面積を増したと考えられます。
興味深いことに、改変マウスの脳では神経活動のパターンにも変化が見られ、各皮質領域の活動が互いに以前より独立して動くようになっていました。
つまり、一部の脳領域が活性化しても他の領域には波及しにくく、それぞれの領域がより専属に働く度合いが増していたのです。
脳が大型化して回路のモジュール性(独立性)が高まることで、情報処理の分業・専門化が進む可能性が考えられます。
たった数カ所のDNA塩基変化がこのような発生過程と神経ネットワークの構築に大きな影響を及ぼしうることは驚きです。
実際、本研究で対象となったHARE5はヒトとチンパンジーの間でわずか4カ所の違いしかありませんでした。
それにもかかわらず、このわずかな変異がニューロンを生み出すシグナル経路の制御バランスを変え、脳のサイズや回路網の特性を大きく変えていたのです。
言い換えれば、ゲノムのごく微小な変化が人類の卓越した脳の進化を可能にした基盤の一部だったのかもしれません。
もっとも、ヒトの脳進化というパズルがこれですべて解明されたわけではありません。
他にも数千に及ぶHARが存在し、それらが脳や認知機能の発達に寄与している可能性があります。
デューク大学のデブラ・シルバー博士(本研究の責任著者)は「人間の脳を現在のような人間の脳たらしめている仕組みは、実に多岐にわたります」と強調し、HARE5はその一部に過ぎないと指摘します。
研究チームは今後、HARE5以外のHARも含めた包括的な解析を進め、ヒト特異的なDNA上の変化がどのように相互作用して人間の脳を形作ったのかを明らかにしたいとしています。
元論文
A human-specific enhancer fine-tunes radial glia potency and corticogenesis
https://doi.org/10.1101/2024.04.10.588953
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部