アメリカのハワード大学(HU)で行われた研究によって、「私たちの体を形づくる小さな“細胞”が、いま世界中で開発競争が激化している量子コンピュータよりも速く“計算”できるかもしれない」と提案されています。
一見するとSFのように聞こえますが、最新の実験結果によれば、私たちの身体を支えるタンパク質構造が量子力学の原理を巧みに利用し、ピコ秒(1兆分の1秒)という驚異的なスピードで情報を処理している可能性が示唆されています。
もしこの現象が本当に存在するならば、私たちの細胞は「生体量子コンピュータ」と呼べるほど高度な演算能力を秘めていることになります。
では、いったい細胞はどのようにして、現行の量子コンピュータすら凌駕するような高速演算を実現しているのでしょうか?
研究内容の詳細は『Science Advances』にて発表されました。
目次
- 計算する宇宙、そして生命
- 細胞の計算速度は量子コンピューターを超える
- 地球規模の情報処理と私たちの存在意義
計算する宇宙、そして生命

近年、「あらゆる物理システムは、その振る舞いのすべてが何らかの情報処理(計算)である」という新しい視点が注目を集めています。
たとえば、宇宙に存在する無数の粒子やフィールドは、相互作用するたびに論理演算のような“状態の更新”を重ねており、その積み重ねがこの宇宙における歴史を紡いできたという考え方です。
中でも興味深いのは、観測可能な宇宙がこれまでに実行してきた計算の総数が10の120乗にも達するのではないか、という大きな推定値が提示されている点です。
これは通常の桁感覚では想像すら難しいほど膨大な数字ですが、宇宙の年齢やエネルギースケール、そして光速やプランク定数などの基本定数を組み合わせて考えると、そのような途方もない数になる可能性が理論的に示唆されているのです。
さらに驚くことに、地球上で長い歴史を経て進化してきた真核生物——つまり私たち人間を含むすべての動植物、菌類といった生きもの——が、ある仮定のもとで計算すると、その宇宙全体の推定値のおよそ平方根に匹敵する情報処理を担っているのではないか、という上限的な仮説もあります。
仮に宇宙全体の演算回数が10の120乗規模だとすると、その平方根は10の60乗ほどです。
私たちには依然として大きすぎる数ですが、それでも宇宙全体に比べればかなり小さいように思えます。
しかし、生物が環境情報を取得し、分子レベルでエネルギーを変換し、遺伝子情報を複製し、さらに細胞同士で複雑なコミュニケーションを行ってきた総体が、それほど膨大な規模の“情報処理”になっているかもしれないという指摘は、多くの科学者たちの好奇心を強くかき立てているのです。
そうした背景の中で注目を浴びているのが、細胞の構造を支えるタンパク質繊維と光の相互作用における“量子的”なふるまいです。
具体的には、紫外線領域の光(高エネルギーの光子)を使ってタンパク質を励起したときに、多数の分子があたかもひとつの巨大な振動子であるかのように連動して光を発する「超放射(スーパーラディアンス)」という特殊な現象が確認されています。
研究者たちによれば、超放射は多数の分子が協調して光を一斉に放出する現象であり、その放出速度を詳しく調べたところ、量子系の状態変化の最短時間を理論的に示す「マルゴリス=レヴィティン速度限界(Margolus-Levitin theorem)」と比べても、わずか100倍以内の誤差に収まるほどの超高速領域に達する可能性があるとされています。
マルゴリス=レヴィティン速度限界とは?
マルゴリス=レヴィティン速度限界とは量子システムがある状態から全く異なる状態へと変化するのに必要な、理論上の最短時間を示すものです。
この限界は、システムに投入されるエネルギーの大きさによって決まり、いくらエネルギーを増やしても、これ以上速く状態を変えることはできません。
もし細胞内部で、この限界に近い速度で分子やタンパク質が状態を変えて情報処理を行っているならば、それは従来考えられていた「神経のスパイクによる計算」などの方法をはるかに凌駕する、驚異的な高速演算能力を持っていることを意味します。
つまり、細胞が自らの構成要素であるタンパク質の量子効果を最大限に活用し、理論上の限界に迫る速さで計算を行うことができれば、生命体の情報処理能力はこれまでの常識を根底から覆す可能性があるという、非常に革新的な発見となるのです。
もしこの観測結果が正確であれば、いま世界中で研究・開発競争が激化している量子コンピュータの性能ですら到達が難しいような“演算速度”を、自然に存在する細胞がすでに実現しているかもしれない——まさにそう考えざるを得ないほど、衝撃的な発見だといえるでしょう。
もちろん、生命体という高温多湿な環境で、これほど繊細とされる量子コヒーレンス(重ね合わせ状態)が失われずに維持されるのかという疑問は、長年にわたって論争の的でした。
量子現象は一般に、絶対零度に近い極低温や真空の状態でないと“デコヒーレンス(量子状態の破綻)”を起こしやすいと考えられてきたからです。
しかし最近の実験では、室温や水溶液中といった日常的な環境下でも、特定のタンパク質繊維は量子的に協調した状態を保てるらしいことがわかってきました。
これは私たちの身体内部で起こる分子レベルの相互作用が、想像以上に効率的かつ高速な情報処理である可能性を示しています。
言い換えれば、細胞はたんに化学反応を起こしているだけでなく、量子力学の原理を活用した“計算機”として機能しうるということを暗示しているのです。
では、実際に細胞のタンパク質構造はどのようなメカニズムでこれほど高速な計算を実現しているのでしょうか。
また、その“計算結果”はどのように細胞の活動や生命現象へと結びついているのでしょうか。
そうした謎を明らかにするため、今回研究者たちは「もし量子現象があるとしたら、それはどれほど強力な情報処理パワーを持ち得るのか」という根本的な問いにも迫る挑戦をはじめました。
細胞の計算速度は量子コンピューターを超える

今回の研究では、まずタンパク質繊維を紫外線レーザーで刺激し、そこから放出される極めてかすかな光を高精度で測定するというやり方がとられました。
イメージとしては、暗い部屋に浮かぶ無数のホタルがピタリと息を合わせて一斉に光る瞬間を、高速カメラで捉えるような感覚に近いかもしれません。
実際の測定結果を見ると、タンパク質の分子同士が“超放射”という特殊な状態で協調しながら光を発し、その放出速度が「量子の世界で考えうる最速レベル」に肉薄していることがわかったのです。
これまでは、生体環境のように熱や雑音が多い場所で、量子現象がここまで明瞭に保たれるとは考えにくいとされてきました。
しかし今回の結果は、室温というごく普通の環境下でも、わずかピコ秒(1兆分の1秒)以下の単位で分子同士が連携して光を放つ可能性を示しています。
この結果は先に述べたように細胞のタンパク質繊維が「マルゴリス=レヴィティン速度限界」に近いスピードで状態変化を起こせる可能性を示唆しています。
もし生命がこれほど高速な情報処理を実現しているとすれば、従来の脳神経モデルをはるかに超える“演算速度”を自然に持ち合わせているかもしれません。
そう考えると、この発見がいかに革新的かがわかるでしょう。
なにしろ、量子コンピュータの世界でもなお挑戦的な目標とされる速度に、生物が普通の環境下で到達しているのですから。
今後、こうしたメカニズムを応用すれば、量子計算のブレークスルーや新たなエネルギー利用技術の開発にもつながるかもしれません。
まさに、生体レベルの量子現象がどこまで“本物”なのかを実験的に示す、刺激的な一歩だといえるでしょう。
地球規模の情報処理と私たちの存在意義

私たちが普段「生命の情報処理」と聞くと、多くの人は脳や神経系の働き、あるいはDNAの遺伝子情報などを想像するでしょう。
確かに、これらは生物学の主要なテーマですが、今回の研究からは、私たちが考えていた以上に“細胞レベル”の仕組みで、しかも“量子的なふるまい”を活用している可能性があることが浮かび上がってきました。
もともと従来の見方では、動物の脳内にある無数の神経細胞をすべて足し合わせたとしても、その情報処理能力には“古典的な限界”があると考えられてきました。
ところが、細胞骨格を構成するタンパク質繊維が、紫外線励起によって「超放射(スーパーラディアンス)」という現象を起こすとき、想像以上に高度な量子効果が働いていることが分かってきたのです。
簡単に言えば、タンパク質の分子たちが一斉に光を放つことで、全体として非常に高速で協調的な情報処理が可能になる、というイメージです。
ここで特に話題になっているのは、地球上の真核生物が長い年月のあいだに積み重ねてきた情報処理量が、なんと“宇宙全体の計算回数のおよそ平方根に匹敵するのではないか”という上限的な推測です。
宇宙全体の計算回数が10の120乗規模だとすると、その平方根は10の60乗という、やはり想像を絶する数字です。
もちろん、宇宙自体がいかに膨大な演算を行っているかは、同じくらい驚くべきことですが、もし地球という一惑星で進化した生命が、その平方根オーダーまで迫る情報処理を長い時間をかけて担っているとしたら——私たちの存在が宇宙の中で占める“計算的な意味”は、これまで考えられていたよりもはるかに重いかもしれません。
さらに今回の実験は、細胞のタンパク質繊維が「マルゴリス=レヴィティン速度限界」に近いスピードで状態変化を起こせる可能性を示唆しています。
量子コンピュータの研究者にとっては、この速度限界をいかに突破するかが大きな課題ですが、生き物はごく普通の室温環境でそれをすでにやってのけているかもしれない、というのです。
これは非常に刺激的な発想で、生物が自然と“高レベルの量子誤り訂正”や“並列処理”を行っているとすれば、私たちが人工の量子マシンで苦労している問題を、生命はあっさりとクリアしていることになるかもしれません。
将来的に、こうした知見を応用した「バイオ由来の量子計算技術」が登場しても不思議ではないでしょう。
ただし、どうして炭素をベースとする生命体が、そこまで高度かつ安定した量子的プロセスを保てるのかは、まだ大きな謎のままです。
紫外線という比較的エネルギーの高い光を使いながら、しかも熱雑音だらけの地球環境で、どうやって分子同士が絶妙にコヒーレンスを保つのか。
単に「量子効果があるらしい」だけでなく、その背景にある物理メカニズムを突き止めるには、さらに多くの実験や理論モデルが必要です。
量子力学・分子生物学・情報科学の境界領域で、学際的なコラボレーションが今まさに求められているといえます。
もし本当に、細胞レベルから見た生命の営みが“宇宙の計算”に迫るようなスケールで情報処理を行っているのだとしたら、私たちが知っている“生命”や“宇宙”のイメージは、これから大きく塗り替えられる可能性があります。
タンパク質繊維の超放射はまだまだ観測手法も限られており、わからない部分が多いものの、新たな疑問が生まれるたびに研究者たちはさらなる実験や理論の精緻化に取り組もうとしています。
こうして一歩ずつ真相に近づいていくプロセスそのものが、まさに科学の醍醐味といえるかもしれません。
そしてこの先、もし生体量子現象が地球スケール、あるいはもっと広い宇宙スケールの情報処理に影響しているとわかれば、私たちの存在意義や宇宙観はどれほど変わるのか——いまはまだ入口に立ったばかりという状況ですが、その先にどんな世界が広がっているのか、想像するだけでも胸が高鳴るのではないでしょうか。
元論文
Computational capacity of life in relation to the universe
https://doi.org/10.1126/sciadv.adt4623
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部