私たちの周りでは、牛乳をコーヒーに垂らすと混ざってしまってもう元に戻らないとか、割れたグラスが自然に元通りにならないといった現象ばかり目にします。
こうした「壊れたものは戻らない」「混ざったものは再び分離しない」という不可逆性こそが、いわゆる「時間の矢」の正体だと広く考えられてきました。
しかし物理の奥深い世界、特に量子力学や相対性理論に目を向けると、「時間を逆に巻き戻しても式が成り立つ」という興味深い性質が見えてきます。
自然の根源的な法則レベルでは時間を逆転させても問題なく動作してしまうのです。
では、なぜ私たちの日常では時間が一方向にしか流れないように感じるのでしょうか。
ここで大きなカギを握るのが、エントロピー(無秩序さ)という概念です。
従来、「誰が測ってもエントロピーは増大し続ける」とされていましたが、最近の理論研究で、新たな可能性が指摘されました。
ブラジルのABC連邦大学(Federal University of ABC)で行われた研究によって「どんな観測者が、どんな場所(時空)で、どんな動きをしながら」見るかによって、量子系のエントロピー増加が変わりうるかもしれないのです。
たとえば地上と山頂、高速で加速するロケットと静止しているラボなどでは、量子世界で生じる無秩序の増え方が微妙に違う可能性がある――そうした理論的示唆が得られてきています。
信じられないかもしれませんが、観測者の位置と動き方を正確に考慮して時空の曲がりを計算すると、エントロピー(無秩序さ)の増え方に差が出る可能性が高まります。
研究内容の詳細は『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- 時間の矢もエントロピーも観測者が描くもの
- 重力が曲げるのは空間だけじゃない?量子エントロピーへの挑戦
時間の矢もエントロピーも観測者が描くもの

一般相対性理論では、重力によって時空そのものが曲げられると考えられます。
ピンと張ったシーツに重いボウリング玉を置いてシーツがたわむ、あのアナロジーですね。
こうした曲がりの影響で、「過去」と「未来」を単純に分けられない状況も出てきます。
すると、そもそも「時間の矢」や「エントロピーが増える」という概念をどう定義すべきなのか、ややこしい問題が生じるのです。
ここで役立つのが、フラクチュエーション定理という理論です。
これは「ごく稀に起こる逆戻り現象も含めて、全体としてエントロピーがどのくらい増大するか」を統計的に導き出す考え方で、量子レベルの小さな系にも適用可能です。
日常感覚では「混ざったコーヒーとミルクが自然に分離する」ようなことは起こりえないと思いがちですが、微小な世界では確率が極端に低いだけでゼロとは言い切れません。
フラクチュエーション定理は、そうした「極めて小さいけれど逆向きに進む」可能性も含めて、不可逆性を正確に評価できる理論的ルールなのです。
ただ、これまでの議論は主に「重力がほとんど効いていない」平坦な時空を想定していました。
アインシュタインが「重力と熱」を結びつけようと試みた歴史は古いものの、量子レベルで徹底的に論じるのは容易ではありません。
そこで今回の研究グループは、Fermi正規座標という手法で、曲がった時空を細かく“実験室”に区切りながら、量子の世界でエントロピーがどう増えていくかを二点測定方式(TPM)で計算できる枠組みを構築しました。
結果として、観測者がどこに立って(どの世界線に沿って)観測するかによって、エントロピー増加の度合いが理論的に異なる可能性が示されたのです。
重力が曲げるのは空間だけじゃない?量子エントロピーへの挑戦

今回の理論が示す最大のポイントは、「エントロピーが増える量」が、観測者がいる場所や動き方――つまり“どんなふうに時空の曲がりを感じるか”――によって変化しうるという点です。
これは、映画を順方向に見るか逆方向に見るかで雰囲気が変わるように、「時間の矢」自体も観測者によって見え方が変わるかもしれないという、従来の常識を覆す考え方だといえます。
たとえばブラックホール近傍のように重力場が極端に強く、そもそも「過去」と「未来」の区別があいまいになると言われる場所で同じフラクチュエーション定理を使ったらどうなるのか――想像するだけでも興味が尽きません。
理論的には、場所や動き方のわずかな差異が「エントロピー増大度合い」を変化させる可能性があるため、不可逆性の根本を考えるうえで非常に重要な示唆といえます。
もっとも、このアプローチはまだ発展途上で、ブラックホール以外にも「量子場の複雑な振る舞い」や「重力波が押し寄せる時空」など、数多くのシチュエーションで検証が必要です。
しかし「観測者によって不可逆性の意味合いが変わるかもしれない」という見通しは、「エントロピーはどこでも同じように増える」という一般的な前提を揺さぶります。
研究者たちは今回の研究成果について多世界解釈風に
「私たちがあなたのオフィスでシステムを使って、2人でエントロピーの測定を行ったとします。その後、あなたはそこに留まり、私は飛行機に乗って世界中を飛び回ってからあなたのオフィスに戻ります。そして、私たちは再び測定を行います。私の世界線はあなたの世界線とは異なるため、私たちは異なるものを見ることになります」
と述べています。
結局のところ、この研究は「量子の無秩序ですらも、誰がどのような経路(世界線)を通って観測するかによって違って見える」という新たな視点を提示しているのです。
熱力学や相対性理論、量子論などをつなげる有力な手がかりになりそうですし、時空が曲がっていると物理現象そのものの“見え方”がどれほど変わるのかを示してくれます。
今後、ブラックホールや宇宙初期のような極限領域だけでなく、実験室スケールでの検証も進めば、私たちが当たり前だと思っている「不可逆な世界観」に大きな一石を投じるかもしれません。
元論文
Quantum Detailed Fluctuation Theorem in Curved Spacetimes: The Observer Dependent Nature of Entropy Production
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.134.050406?_gl=1*m18583*_ga*NDc0MDg5NTkwLjE3MjAzOTI3NTM.*_ga_ZS5V2B2DR1*MTc0MTU4OTU0Ni45MS4xLjE3NDE1ODk4OTQuMC4wLjEyOTUxOTQ5MDQ.
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部