氷点下の海で泳いだ後でも、ホッキョクグマは体に氷が張りついている様子がありません。
テレビやドキュメンタリーでその姿を見た多くの人が、「どうして凍らないのだろう?」と不思議に思ったことでしょう。
実際、極寒の北極圏でホッキョクグマはどのようにして毛皮を氷から守っているのでしょうか。
ノルウェーのベルゲン大学で行われた研究によって、ホッキョクグマの毛皮の耐氷性は毛皮自体の特性ではなく、毛に分泌される天然の油によるものであることが示されました。
本記事では、この“ホッキョクグマの凍らない毛皮”に秘められた仕組みを、最新の研究結果とあわせてわかりやすく解説します。
研究内容の詳細は2025年1月29日に『Science Advances』にて発表されました。
目次
- なぜホッキョクグマの毛は“凍っていない”ように見えるのか
- ホッキョクグマ皮脂の特殊性
- ホッキョクグマの凍らない油はスキー板から航空宇宙産業まで役に立つ
なぜホッキョクグマの毛は“凍っていない”ように見えるのか
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まず前提として、ホッキョクグマの体毛は一本一本が中空構造になっており、高い断熱性を持ちます。
また、厚い皮下脂肪と黒い皮膚によって体温を保ち、極寒の地でも体を温められることが従来から知られていました。
しかし、外気温が氷点下なのに加え、泳いで毛が濡れることもある厳しい環境で「毛自体が凍りつかない」という謎は、これだけでは十分に説明できません。
研究者たちは、野生映像や赤外線カメラのデータから、ホッキョクグマの毛の表面温度が周囲とほぼ同じ氷点下まで下がっている可能性に気づきました。
それでもなお、毛が凍りついたり氷がこびりついたりしていない現実があります。
そこには、従来あまり注目されていなかった「油分」という決定的な秘密が隠されていました。
今回の研究は、ノルウェーのスヴァールバル諸島で入手したホッキョクグマの毛皮サンプルが大きな鍵となりました。
物理学者ボディル・ホルスト氏らのグループは、ホッキョクグマの毛皮を洗浄処理したものとしなかったもの、人間の髪の毛、そしてスキー板に使用されるフッ素系化合物コーティング(いわゆる“スキーワックス”)のサンプルを比較する実験を行いました。
研究チームはそれぞれのサンプルの上に氷を作り、氷の塊を押しのけるのに必要な力を測定し、「どれだけ氷が毛皮や表面にくっつきやすいか」を数値化しました。
その結果は驚くべきものでした。
洗っていないホッキョクグマの毛皮:氷が非常に付きにくく、市販の最高級スキー板に匹敵するほど簡単に氷を押しのけられた。
洗って油分を除去したホッキョクグマの毛皮:氷を押しのける力が4倍近く増大し、防氷効果が激減した。
人間の髪の毛:油分はあるものの、ホッキョクグマの毛皮ほどの防氷効果は示さなかった。
これらの結果から、ホッキョクグマの毛皮の最前線である「表面の油分(皮脂)」が、氷を寄せつけない最大の要因であることが確認されたのです。
そうなると気になるのが油の正体です。
いったいどんな油が凍結耐性を授けていたのでしょうか。
ホッキョクグマ皮脂の特殊性
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いったいどんな油が凍結耐性を授けていたのか?
答えを得るため、研究者たちはまず毛皮の構造を電子顕微鏡で観察し、化学的組成を分析する手法(ガスクロマトグラフィーや質量分析など)と、氷の付着力を測る物理実験を組み合わせました。
するとホッキョクグマの皮脂には、海獣によく見られるスクアレンという成分が含まれておらず、代わりに珍しい脂肪酸が多く含まれる可能性があることが示唆されたのです。
現在、動物の皮脂成分を詳しく調べる研究はあまり進んでいないため、今後さらに多角的な分析が必要だとされています。
研究者たちは「今回の成果はあくまで第一歩」と強調しています。
ホッキョクグマ皮脂に含まれるグリセロールやワックス類の比率など、さらなる精密分析が進めば、自然界における“除氷機能”の全容がよりはっきりわかるでしょう。
一方、このようなホッキョクグマの毛皮の機能は、北極圏の先住民にとっては昔から身近でした。
たとえば、イヌイットなどは狩猟用の椅子の脚にホッキョクグマの毛皮を巻き付け、氷への貼りつきを防いでいました。
また、ブーツの底に毛皮を縛り付ければ、氷を踏んだ際に出るきしむ音を抑えられるため、アザラシなどの獲物に気づかれにくくなるというのです。
こうした伝統的知恵が、現代の科学研究によって裏づけられたのは非常に興味深いことだと言えます。
今回の研究で特徴的なのは、「ホッキョクグマの防氷メカニズムが毛の表面構造ではなく油の作用にある」という点です。
たとえば、南極に生息するペンギンが防氷を実現するのは、羽毛の超撥水(ちょうはっすい)構造によるところが大きいとされます。
つまり、寒冷地に適応した動物でも種類によって「表面構造」に頼るか「油分」に頼るかが異なるのです。
海氷上を自在に移動し、泳ぐだけでなく氷上を歩くことも多いホッキョクグマは、氷の付着を防ぐ方法として油を進化の中で選び取ってきたと考えられます。
ホッキョクグマの凍らない油はスキー板から航空宇宙産業まで役に立つ
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今回の研究は、ホッキョクグマの毛皮を模倣した新しい防氷・着氷防止技術につながる可能性があります。
現在、防氷の目的で使われる長期持続性フルオロカーボンなどの化学物質は、環境への影響が懸念されています。
そこで、ホッキョクグマの皮脂成分やその働きを参考に、より安全で環境に優しいコーティング剤やワックスを開発しようというアイデアが生まれているのです。
スキー板だけでなく、航空機の翼や風力発電のブレードなど、氷結が大きな課題となる分野は多岐にわたります。
特に北極圏や高所、冬場の空港などでは、航空機の着氷防止に大量の薬剤が使われており、環境負荷の低減が求められています。
ホッキョクグマの油に着想を得た技術が実用化されれば、こうした課題の解決に一役買うかもしれません。
さらにユニークな発想として、ホッキョクグマの皮脂を参考にした「ヘアワックス」を提案する研究者もいます。
極寒の地域で屋外作業をする人々にとって、髪の毛が濡れた状態でいると凍ってしまうリスクがありますが、それを防ぐ用途が考えられるのです。
もっとも、実際に商品化されるかは未知数ですが、自然界の巧妙な仕組みが私たちの生活に新たな選択肢を与える可能性は十分にあるでしょう。
元論文
Anti-icing properties of polar bear fur
https://doi.org/10.1126/sciadv.ads7321
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部