日帰り治療も夢ではありません。
アメリカのイリノイ大学(University of Illinois)で行われた研究により、たった1回の投与でマウスの乳がんをほぼ消滅させる小分子が発見されました。
従来の治療法では、長期にわたるホルモン療法や副作用との闘いが避けられませんが、新たに開発された小さな分子薬が「単回投与」のみで腫瘍を壊滅的に縮小させたのです。
しかも、マウスの実験では副作用がほとんど見られないといいます。
もしこの技術が人間の患者でも実現すれば、乳がん治療の常識を根本から覆すかもしれません。
どうしてそんなことが可能なのか?
研究内容の詳細は2025年1月22日に『ACS Central Science』にて公開されました。
目次
- 乳がんが「手軽に」治る時代が近づいている
- たった1回の投与で腫瘍が消滅
- がん治療が「日帰り」で終わる世界が来る
乳がんが「手軽に」治る時代が近づいている
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乳がんは、世界中で多くの女性の命に関わる病気です。
実際、日本人女性の11人に1人が生涯のどこかで乳がんになると言われています。
そのなかでも「エストロゲン受容体陽性(ER+)」と呼ばれるタイプの乳がんは、女性ホルモンであるエストロゲンが腫瘍の成長を促進することがわかっており、患者の7割近くがこのタイプに該当するとされています。
一般的な治療としては、まず手術で腫瘍を切除し、その後ホルモン療法と呼ばれる治療を数年間にわたって続ける流れが標準的です。
ホルモン療法では、エストロゲンが乳がん細胞に働きかけるのをブロックしたり、体内のエストロゲン濃度を低下させたりする薬を使います。
代表的なものに「タモキシフェン」や「アロマターゼ阻害薬」があり、こうした治療が導入されてから乳がんの生存率は大きく向上しました。
しかし、長期間にわたる薬の服用や注射には、骨粗しょう症や血栓症、性機能障害などの副作用も見られます。
また、薬によっては体調不良や倦怠感といった日常生活に影響を及ぼすものもあり、患者さんが途中で治療を断念してしまうケースも少なくありません。
さらに問題なのが、乳がんが最初はよく効く薬であっても、長い年月をかけてがん細胞が耐性(薬が効きにくくなる状態)を獲得してしまう点です。
ホルモン療法は腫瘍細胞を「増やさない」方向に導くことが多いのですが、「細胞を完全に死滅させる」わけではないため、どうしても再発リスクや耐性獲得のハードルを完全に取り除くには至りません。
こうした状況を打破しうる可能性として、イリノイ大学をはじめとする研究チーム(ポール・ハーゲンローザー氏ら)は、エストロゲン受容体陽性の乳がん細胞を狙い撃ちにする新しい小分子薬「ErSO」およびその改良版を開発してきました。
ErSO-TFPyがこれまでの薬剤と大きく異なるのは、単にがん細胞の増殖シグナルをブロックするだけでなく、がん細胞を短時間で死に追いやるメカニズムを持っているところです。
たとえばホルモン療法や分子標的薬の多くは、がん細胞を「大人しくさせる」ことが目的で、ある程度の期間継続して投与し続ける必要があります。
一方、ErSO-TFPyは、細胞が急激に膨張して壊死するというプロセスを誘発し、結果的に乳がん細胞そのものを破壊する働きが期待されるのです。
つまり、新たな小分子(ErSO-TFPy)はがん細胞の自爆を誘発する形で、腫瘍を退治するわけです。
さらに、この化合物のすごいところは、その「特異性」にあります。
エストロゲン受容体を持たない乳がん細胞や正常細胞にはほとんどダメージを与えず、ER+のがん細胞にだけ強力に作用するという選択性の高さが動物実験で示唆されています。
この選択性によって、過剰な副作用が回避される可能性が高いと考えられています。
実際、マウスやラット、さらに一部の犬を用いた毒性試験でも、体重の大幅な減少や顕著な副作用は報告されていません。
しかしより重要なのは、その手軽さにあります。
たった1回の投与で腫瘍が消滅
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今回の研究でとりわけ驚きなのは、「たった1回の投与」という点です。
通常、新しい薬剤をマウスに試す場合、小さな腫瘍なら1~2週間、あるいはそれ以上にわたって毎日あるいは数日おきに投与することが多くなります。
しかしErSO-TFPyの場合、マウスの体内にある直径数ミリ程度の小さな腫瘍ならば1度の注射でほぼ消失し、さらに直径1センチを超えるような大きめの腫瘍(およそ500~1500 mm^3)でも1度の投与で劇的な縮小をもたらしたというのです。
しかも、その後の観察では体重の変化や行動異常など大きな副作用もほとんど確認されませんでした。
これは動物実験段階の結果ではあるものの、「単回投与で腫瘍を消失させ、かつ副作用が少ない」という組み合わせは医薬品開発において極めて希少です。
研究では、ErSO-TFPyは血中に長時間とどまるわけではないものの、短期間でがん細胞を“自滅”の方向に追い込むため、その後に薬が分解・排泄されても腫瘍は縮小し続ける、というメカニズムが示唆されています。
詳しく見てみると、ErSO-TFPyはTRPM4という特定のイオンチャネルを介して細胞内部のイオンバランスを大きく崩し、がん細胞を急速に膨張・破裂させるように誘導します。
これは「壊死(ネクローシス)」と呼ばれる細胞死の様式で、通常のアポトーシスよりも細胞が“破裂”するイメージに近い現象です。
免疫不全マウスを用いた実験でも、腫瘍が大幅に縮小したため、免疫細胞が活発にがんを攻撃しているのではなく、薬剤そのものが直接的に細胞を殺傷していることがうかがえます。
これらの成果はまだ動物実験レベルの話であり、人間の体でも同じように作用するかは今後の臨床試験で確かめる必要があります。
ただ、マウスモデルでは本当に目を見張るような結果が出ており、もしヒトでも「1回の投与で長期にわたる腫瘍縮小効果が期待できる」なら、現行の長期ホルモン療法から大きく治療体系が変わるかもしれません。
がん治療が「日帰り」で終わる世界が来る
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ErSO-TFPyのように、乳がん細胞を一気に破壊する薬の登場は、これまでのがん治療の常識を塗り替える潜在力を秘めています。
何年も服用を続けなければならないホルモン療法の負担を軽減し、副作用による生活の質の低下を最小限に抑えられれば、患者さんの治療継続率も上がり、再発予防の効果がより確かになる可能性があります。
しかし、この研究はあくまで動物実験段階における結果であり、ヒトの体内で同じ現象が起こるかどうかは未知数です。
どれだけ効果的にがんを減らせるのか、どの程度の用量が安全か、他の臓器に悪影響はないか──大規模な臨床試験と多角的な検証が求められます。
さらに、患者さんによってはエストロゲン受容体が変異していたり、HER2など他の分子が関与する複雑なタイプの乳がんを抱えている場合もあります。
そうした多様な症例に対して、この新薬がどこまで有効なのかも慎重に見極める必要があるでしょう。
いずれにしても、わずか1回の投与で乳がんを「撲滅」に近い形で抑え込むというアイデアは、がん研究のなかでも注目に値する大きな成果です。
もしかしたら未来のがん治療は「日帰り」で完了するようになるのかもしれませんね。
元論文
Single Dose of a Small Molecule Leads to Complete Regressions of Large Breast Tumors in Mice
https://doi.org/10.1021/acscentsci.4c01628
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部