ある夏の夜、深い静けさが城下町を包み込んでいました。
その時、空堀の底に忍びの影が忍び寄ります。
闇夜に紛れた彼らの目的は、敵城を奪うという大いなる野望であったのです。
数百の忍びたちが切岸をよじ登り、塀の上から城内を窺い見ます。
その姿は、まるで夜闇そのものが生きて動いているかのようです。
そして、火の手が上がる瞬間を合図に、鬨の声が城を揺るがし、混乱に乗じて城を乗っ取ります。
では、このような壮大な物語は果たしてどこまで真実なのでしょうか?
この記事では戦国時代の忍者がどのような仕事をしていたのか、また人々からどう認識されていたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、平山優(2020)『戦国時代の忍びの実像』忍者研究2020 巻3号に詳細が書かれています。
目次
- 破壊工作から情報収集までなんでも行っていた忍者
- 現代での知名度に反して蔑視されることもあった忍者
破壊工作から情報収集までなんでも行っていた忍者

戦国時代の忍びが放火や城の乗っ取りを行ったという事例は、いくつかの史料に記されています。
その一例が1553年、信濃(現在の長野県)での出来事です。
武田信玄が村上義清(むらかみよしきよ)を追放した後、越後の長尾景虎(ながおかげとら、後の上杉謙信)が義清を支援し、武田軍と激戦を繰り広げた第一次川中島の戦い。
この戦いの中で、武田方の忍びが景虎軍の占拠する麻績城(おみじょう、現在の長野県東筑摩郡麻績村)に放火し、敵軍に混乱をもたらしました。
夜の闇に紛れて行われた火攻めは、景虎軍の士気を動揺させ、撤退に追い込むほどの影響力を持っていたのです。
また、永禄8年(1565年)の肥後(現在の熊本県)では、ある国人が相良家の小川城(現在の熊本県宇城市)に忍びを送り込み、放火を試みたといいます。
この時は幸いにも放火は未遂に終わったものの、忍びの存在が城方に与える緊張感は計り知れません。
発見された忍びを捕らえようと追いすがるも、「かめ坂」という地で逃げられた様子が『八代日記』に記録されています。
この出来事は、戦国時代の城にとって忍びがいかに大きな脅威であったかを物語っているのです。
さらに、織田信長の書状にも、忍びの潜入や放火にまつわる記述が登場します。
信長が家臣に与えた感状には、岐阜城内に忍び込んだ敵を発見し撃退した功績が記されています。
特に興味深いのは、信長がその状況を神妙な行動と称賛したことです。
この「忍びを撃退した」という記録から、戦国の世では城を守る側もまた、忍びに対して高度な警戒を怠らなかったことが窺えます。
なお作品の中では忍びが派手な戦闘を繰り広げる場面が描かれることもしばしばありますが、実際の忍びは出来るだけ戦いを避けていたということもあり、派手な戦闘はあまり行いませんでした。
忍びの活動は単なる破壊工作だけにとどまらず、情報収集や敵の攪乱といった戦術的役割も担っていました。
真田昌幸(さなだまさゆき)が「目付」を派遣して敵の動きを探らせた事例や、武田家が村人を動員して「地下かまり」と呼ばれる伏兵を組織した話もその一環です。
これらの活動は、敵地に潜り込み、夜闇に紛れて動く忍びたちの姿を浮かび上がらせます。
戦国の世における忍びの役割は、時に幻術めいた逸話として語り継がれ、また時に冷徹な記録として史料に残されているのです。
その姿は、夜闇に溶け込み、火と混乱を操る影の軍団そのものです。
歴史の奥深くに潜む彼らの実像を追うと、そこには戦国という時代の荒々しさと、忍びたちが織り成す闇の物語が、鮮烈な筆致で描かれているように思えるのです。
現代での知名度に反して蔑視されることもあった忍者

それでは忍者は人々からどのように認識されていたのでしょうか?
『武家名目抄』によれば、忍びには「透波」「乱波(らっぱ)」「草」「かまり」など、さまざまな呼称があります。
「透波」は、人を欺き、素行が不良で言動が一致しない者(ウソつき=すっぱ)に由来し、「乱波」は騒がしく動き回ることで敵を翻弄する者を指します。
彼らは敵地に潜入し、敵情を探るのはもちろん、火を放ち、暗殺を行い、また敵軍を混乱させることを任務としていました。
要するに、忍びとは、戦国の混沌を自在に操る影の工作員であったのです。
ただ、忍びたちの出自は一様ではありません。『武家名目抄』では、「透波」「乱波」などの忍びの多くが、野武士や山賊、海賊、強盗といったアウトローの出身であったことが記されています。
こうした者たちは盗人でありながら、ただの盗人ではありません。
心が強く、時に横道を進みながらも、狡猾で大胆。戦場ではその才知を買われ、大名たちは彼らを養い、忍びとして働かせることが常であったといいます。
一方、忍びたちが戦場で担った役割の重要性が高まる一方で、彼らの社会的地位は決して高くありませんでした。
これは先述したように忍びの多くはもともと野武士や賤民、山賊などの出身であり、彼らの身分や行動は蔑視されることも多かったためです。
『甲陽軍鑑』では、忍びを「乱波者」(ろくでなし)と揶揄するような記述さえあります。
彼らは戦場では英雄的に振る舞う一方で、社会的には冷ややかな目で見られていました。
それでも、忍びたちはその技量と知恵をもって戦国の世を駆け抜けました。
昼間は山中に身を隠し、夜になれば草むらから顔を出し、敵の陣に忍び入ります。
彼らは夜の王者であり、その生き様は、まさに影法師そのものでした。
戦国の闇夜に、忍びたちの息遣いが聞こえます。その足跡は、今も歴史の彼方に深い爪痕を残し、彼らが生きた時代の混沌と自由を物語っているのです。
参考文献
戦国時代の忍びの実像
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ninja/2020/3/2020_1_13/_article/-char/ja/
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部