近世において、江戸は世界有数の人口を誇る大都市でした。
しかし近世の都市ではゴミ問題に悩まされることが多かったものの、江戸はそのようなことはなかったのです。
果たして江戸時代はどのような方法でゴミを処理していたのかのでしょうか?
またどのようにリサイクルが行われていたのでしょうか?
本記事では江戸時代のゴミ処理とリサイクルについて紹介していきます。
なおこの研究は、北海道教育大学旭川校社会学研究室調査報告vol.1p154-160に詳細が描かれています。
目次
- ゴミ問題に試行錯誤を繰り返していた江戸幕府
- ゴミは天下の周り物であった江戸時代
ゴミ問題に試行錯誤を繰り返していた江戸幕府
江戸時代の都市は、リサイクルシステムが整備されていた模範的な都市とされています。
しかし実際にその体制が確立されるまでには、多くの課題がありました。江戸時代の初期、ゴミは「会所地(かいしょち)」と呼ばれている空き地に捨てられていました。
しかし住民が全員ここにしかゴミを捨てていなかったわけではなく、中には野焼きで焼却処理したり、はたまた川や堀に勝手に捨てて処理したりする人もいたのです。
しかし当時は消火技術が未発達で建物のほとんどが木造であり、それゆえ野焼きによってしばしば大規模な火災が起きました。
また不法投棄によって堀や川が詰まり、悪臭の発生や船の航行に支障をきたすこともあったのです。
これにより、幕府はごみの処理を厳しく取り締まる必要に迫られ、取締役である「芥改役(あくたあらためやく)」を設置して不法投棄を監視させるようになりました。
また会所地も近隣住民が悪臭や害虫に悩まされているという問題から、1649年にはゴミの会所地への投棄が禁止されるようになりました。
代わりに指定されたゴミ処理場が設けられ、そこでゴミが処理されるようになったのです。
ゴミ処理場には、現在の江東区周辺の低湿地が利用され、それにより江戸時代のゴミ処理システムが確立されました。
江戸の住民が自らゴミ処理場まで運ぶことは難しかったため、専門のゴミ回収業者が登場し、船を使ってごみを処分場へ運搬していました。
このシステムは、現在の清掃業務に近く、当時としては非常に先進的であったのです。
1662年には、「浮芥定浚組合(うきあくたじょうざらいくみあい)」が組織され、ごみの運搬と処理を効率的に行いました。
また、ごみの中からリサイクル可能なものは選別され、農家や鍛冶屋などに売却される仕組みもあったのです。
現在のごみ収集は税金で賄われているものの、当時は排出者負担の原則で運営されており、家賃に処理費用が含まれていました。こうしたシステムは、リサイクル社会を形成する基盤となり、現代のごみ処理にも通じるものがあります。
ゴミは天下の周り物であった江戸時代
前節では幕府が行ったごみ対策のあれやこれやを眺めてきたわけですが、それ自体は現代の目から見ても特段変わったものではなく、感心するところもさほど多くはございません。
むしろ、江戸という町が実に優れていたのは、都市全体がひとつの壮大なリサイクルシステムとしてきちんと機能していた点でありましょう。
何かを捨てるということが滅多になく、壊れた物、不要な物、それはすぐさま専門の業者の手に渡り、修理され、あるいは再利用され、新たな価値を与えられて再び町に現れる。
新品と同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に中古品や再生品が市場に溢れていたのです。
この江戸の町を縦横無尽に駆け巡るリサイクルの仕組みを支えたのは、今で言えばリサイクル業者、当時の言葉で言えば屑屋、あるいは修理商人たちでありました。
第一に、「職商人」という人々です。
彼らは修理を生業とし、時には新品を販売したり、古物を下取りしたりもしていました。
例えば、暗い夜道を照らす提灯の紙を張り替える職人や、傘の修理も手広くやっていた算盤屋、羅宇屋(キセルの修理屋)などがあったのです。
壊れた物は簡単には捨てられず、まずはこれらの商人の手に渡って修繕され、物は再び町を歩き回ることになるのです。
第二は、修理専門の業者です。
壊れた鍋、底に穴が空いた釜、割れた瀬戸物、そんなものたちを黙々と直していた職人たちです。
鍋や釜を修理する鋳かけ屋、瀬戸物の割れ目を焼き接ぎする瀬戸物屋、さらには桶の箍(たが)をはめ直す箍屋、鏡を研ぎ上げる鏡研ぎ屋、刃物を研ぐ研ぎ屋など、なんとも頼りがいのある職人たちでございます。
彼らがいれば、物は次々に蘇り、再び日の目を見ることができるというものです。
第三に、不用品の回収専門業者です。これまた屑屋の一種で、紙、金属、古布、古着などを買い集め、専門の問屋に売る者たちでした。
彼らの手にかかれば、捨てられるべき物が新たな命を得て生まれ変わります。
特に紙は高値で取引され、江戸では「浅草紙」と呼ばれる再生紙が広く流通しておりました。
紙屑一枚にも立派な価値があった時代、それを拾い集める屑拾いも、町の隅々を巡り、貴重な紙を回収しておりました。
何度でも漉き返すことのできる和紙の特性が、リサイクルを支える礎となっていたのです。
さて、江戸の町にはほとんどごみというものがなかったと言われていますが、それはひとえにこうした商人や職人たちのおかげでした。
町中を歩き回り、物という物を拾い集め、再利用し、無駄なものは何ひとつなかったのです。
古着や傘の骨、さらには湯屋の燃料となる木くずまで、あらゆるものが再び使われ、リサイクルの一大システムが江戸を支えていたのです。
現代では、ごみはただの邪魔者、やっかい者として扱われ、大量に発生しては処分に頭を悩ませるのが常ですが、江戸の人々は違いました。
彼らは、現代人がごみとして捨てるようなものにまで商品価値を見出し、それを如何にして効率よく回収し、再利用するかに腐心していたのです。
その結果、江戸という町は、世界有数のリサイクル都市として知られるまでになったのではないのでしょうか。
参考文献
北海道教育大学旭川校社会学研究室調査報告vol.1p154-160(PDF)
https://www.asa.hokkyodai.ac.jp/research/staff/kado/ch16.pdf
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。