現在でも韓国やイスラエルなどといった国では徴兵制度が実施されていますが、戦前の日本でも行われていました。
しかし現在の韓国でしばしば徴兵逃れをする人が問題になっているように、戦前の日本でも徴兵逃れをする人はいたのです。
果たして戦前の人々は、どういった手段を用いて徴兵逃れを行っていたのでしょうか?
この記事では戦前に徴兵から逃げたい人が合法・非合法を問わずどのような手段で徴兵から逃げていたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、京女法学第22号に詳細が書かれています。
目次
- 最初は条件がゆるかった徴兵令
- 海外移住、進学、中には犯罪者になることを選ぶものも
- 非合法な徴兵逃れ「失踪、詐病」、中には命を絶つものも
最初は条件がゆるかった徴兵令
日本で徴兵制度が始まったのは1873年です。
富国強兵を目指す明治政府は、国民皆兵を目指すために徴兵令を出しました。
しかし当初の徴兵制度では様々な除外要件があったのです。
たとえば一家の主やその後継者とされていた長男は徴兵の対象外とされていたことを利用して、名目上の分家を行って一家の主になったり、後継者のいない家に養子縁組を行ったりして、徴兵から逃れることができました。
また当時の北海道では徴兵制の施行が本土よりも遅かったこともあり、北海道に本籍地を移すことによって徴兵から逃れる人も数多くいたのです。
さらにこのころの徴兵制度では対象者全員が徴兵されているわけはなく、その中から抽選で選ばれた人のみが徴兵されていました。
そのため当時の徴兵制度は国民の間で不公平感が非常に高く、徴兵を回避するための対策も色々あったため逃れる人が多かったのです。
そのことは政府も問題視しており、1889年の徴兵令改正で除外要件は大きく減ったのです。
海外移住、進学、中には犯罪者になることを選ぶものも
しかし改正以降も徴兵逃れの手段はなかったわけではなく、1895年に「海外に住んでいる人は徴兵が猶予される」というルールが出来ると、海外移住は徴兵逃れの方法として広く認識されるようになりました。
海外に移住した場合は毎年在外公館に徴兵延期願を出し続ければ合法的に徴兵から逃れることができ、それゆえ中にはアメリカに移住後19年間徴兵猶予願を出し続けていた人もいます。
中には徴兵猶予願すら出さずにそのまま行方をくらます人さえいたとのことですが、当時の在外公館には徴兵逃れの人を探す人員はいなかったこともあり、ほとんどの人はそのまま徴兵から逃げることができました。
当時徴兵制が敷かれていたのは日本本土だけであったこともあり、海外とはいかなくても1895年に植民地になった台湾、1910年に植民地になった朝鮮、1919年委任統治領になった南洋諸島(パラオやサイパンなど)などに移住して徴兵から逃れる動きもあったのです。
それでも第二次世界大戦が激化すると植民地でも徴兵が行われるようになり、1944年には朝鮮、1945年には台湾で徴兵制が実施されました。
また第二次世界大戦末期を除いて学校に通っている間は徴兵が猶予されていたこともあり、徴兵を引き延ばすためだけに進学する人も多くいました。
中には徴兵から逃れるためだけに在籍だけして全く通学していない人さえおり、1934年の陸軍省の調査によると私立大学に400人ほどの不通学在籍者がいたとのことです。
さらに珍しい例ですが、「徴兵されるよりは刑務所に入った方がマシ」と考え、犯罪を繰り返して刑務所に何度も入ることによって徴兵から逃げたものもいました。
非合法な徴兵逃れ「失踪、詐病」、中には命を絶つものも
以上のように合法的に徴兵を逃れるものも多かったのですが、中には非合法的な手段で徴兵から逃れるものも多くいました。
そのうちの一つが失踪であり、1890年代には6000人近くが所在不明になっていたのです。
そういった人たちは炭鉱労働者や港湾労働者といった身元があまりはっきりしていなくても何とかなる職業に就いて日銭を稼いでおり、各地の鉱山や港を転々としながら生活していました。
なお40歳になれば逃亡の時効がなくなるということもあって、こうした逃亡者たちは40歳を境に社会復帰をしていたのです。
また入営時に行われる健康診断にて、不正を行うことによって徴兵から逃れる人もいました。
金銭に余裕のあるものや軍医に知り合いのいるものは、軍医に賄賂を贈って徴兵不適格の診断書を出してもらったりしていたのです。
またそういったツテのないものでも、見えるものを見えないと主張して視力検査で悪い結果を出すことや、精神病のフリをすることによって徴兵不合格を勝ち取るものはいました。
さらにそんな小手先のテクニックで健康診断を偽装するのではなく、実際に体を傷つけることによって不合格を確実に勝ち取ろうとするものもいました。
具体的には数カ月前から食事を減らして体重を落とすことや検査の直前に2リットル近くの醬油の一気飲みをして高血圧を装うことといった可逆的なものから、人差し指を切り落としたりや暗いところで細かい字を読んで視力を落としたりするなど不可逆的なものまであり、様々な手法で徴兵から逃げようとしていたのです。
また中には徴兵から逃れるためにわざと錆びた釘を踏んで足に泥を付けて破傷風になったところ、片方の足首を落とすことになる人もいました。
こういった徴兵逃れをすることにより、命を落とすことになったものも少なくありません。
加えて中には「徴兵に行くくらいなら死んだ方がマシだ」と考えて、自殺する人さえいました。
実際に満州開拓少年義勇軍(日本国内の青少年を満洲国に開拓民として送出する制度)に参加していたある少年は、
お父さん、小さいころ、ぼくがよその子をなぐったら、いけないことだと教えてくれましたね。それが、いま戦争で、人と人が殺し合っている。なんの恨みも、憎しみもない人間同士がですよ。戦争に行けば、人を殺さなければならない。お父さん、そんなことが許されてもいいものなのでしょうか。それでも戦争に行くべきなのでしょうか。そんなことなら、ぼくは愛する満州の大地で、静かに眠りたい。
という両親宛の遺書を残して首を吊ったのです。
このように戦前にも合法・非合法を問わず様々な方法で徴兵から逃げている人もいましたが、とはいえほとんどの人は思うところはあったにせよそのまま徴兵に応じていました。
これは当時「徴兵に行ってこそ一人前の男である」という考えが強かったこともあり、合法・非合法を問わず徴兵から逃れることによって周りから冷たい視線を浴びたり馬鹿にされたりすることを恐れていたのです。
また当時は現在よりも共同体の力が強かったことも、人々からの制裁の効力を強めていました。
兵役から逃れるために軍隊式の教育を受けた小学校教員
余談ですが、戦前の小学校の教員は6週間の間短期現役兵として入営すればそれ以降は完全に兵役から免除されており、それゆえ兵役の負担を軽減するために小学校の教員になるものもいました。
またこの6週間の入営中も食事などの面で非常に優遇されており、教育界においても「この特典によって小学校教員になるものが増えるだろう」と予想されていました。
しかし当時小学校の教員になるためには師範学校(概ね現在の国立大教育学部の前進)を卒業しなければならず、そこでの教育は軍隊式でした。
そのため戦争に行くのが嫌で徴兵逃れを考えている人ならまだしも、軍隊式の生活が嫌で徴兵逃れを考えている人にとって小学校教員になるという選択が現実的なものであったのかは未知数です。
実際に当時の小学校教員の多くは師範学校での生活や優遇された軍隊生活によって軍隊的な価値観を内面化しており、暴力的な手法を学校で行うこともありました。
またそういった教員は自らが戦争に行くことはないのにもかかわらず「お国のために命をささげる」ことを子供たちに説いており、いかに欺瞞に満ちた存在であったのかが窺えます。
参考文献
Kyoto Women’s University Academic Information Repository: 日本における徴兵忌避 : 国家への異議申し立てとして (kyoto-wu.ac.jp)
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/3600
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部