ノーベル医学賞の候補に挙がるかもしれません。
ドイツがん研究センター(DKFZ)で行われた研究により、マウス脳内で栄養補給を担う星状細胞(アストロサイト)を脳幹細胞へと変化させ、新しいニューロンの元となる細胞を生成することに成功しました。
研究者たちは、このプロセスを医療に応用することで、脳卒中や事故などで失われた神経細胞を補充し、「脳の再生」が実現できる可能性があると述べています。
しかし、どのような仕組みがこの幹細胞化を促進していたのでしょうか?
研究内容の詳細は、2024年9月4日に『Nature』で発表されました。
目次
- 脳内にも幹細胞が存在する
- 脳細胞(星状細胞)と脳幹細胞の差は意外な部分にあった
- 遺伝子のロック解除(脱メチル化)で幹細胞が生まれる
脳内にも幹細胞が存在する
脳の再生医療が実現する世界へ
病気や事故で失われたニューロンが再生できるとすれば、脳損傷に苦しむ多くの患者たちにとって大きな希望となるでしょう。
これまでの常識では、脳卒中や外的要因によって脳細胞の一部が失われた場合、その部分は「回復不可能」と考えられていました。
死んだ脳細胞を再生させる方法はなく、新たな脳細胞が傷ついた場所に自然に現れることもありません。
(※ウーパールーパー(アホロートル)など、一部の動物は脳の半分が失われても再生することができます)
リハビリによって、ある程度症状を緩和することは可能ですが、これは死んだ脳細胞を復活させるのではなく、失われた脳回路を迂回するために代替回路を形成することが主な目的です。
しかし、新たな研究では、脳内の非幹細胞を幹細胞に再プログラムする方法が開発されました。
幹細胞はさまざまな種類の細胞を生み出す能力を持ち、実験では幹細胞を適切に刺激することで、ニューロンの前駆体となる細胞を新たに生成することに成功しました。
研究の背景:脳では「幹細胞らしくない細胞」が幹細胞として機能している
かつて、脳内で新たなニューロンが生成されることはないと考えられていました。
実際、20世紀に書かれた古い医学の教科書には、ニューロンは胎児期にすべて生成され、大人になってからは新たに生成されないと記されていました。
しかし、近年の研究によって、成人でも神経細胞の新生が起こっていることが明らかになってきました。
たとえば、「ロンドンのタクシー運転手の海馬が、他の人と比べて大きい」という研究があります。
この研究は単に海馬の体積を調査したものでしたが、後続の研究では、海馬の歯状回という領域で実際にニューロン新生が起きていることが確認されました。
また、脳の空洞部分である脳室下帯も、成人以降もニューロンを生成し続ける特殊な領域であることがわかっています。
特に、マウスの脳室下帯では、脳細胞に栄養を供給する役割を担う「星状細胞(アストロサイト)」が神経幹細胞として機能していることが知られています。
体内の細胞は、特定の役割を持つ細胞(例えばニューロンや胃粘膜細胞)と、それらを補充する幹細胞に分かれます。
ニューロンや胃粘膜細胞が「職についている」社会人とするなら、幹細胞は「職に就く前の未熟者」と言えます。
細胞の世界では、増殖するのは職に就いた細胞ではなく、未熟な幹細胞です。
未熟な細胞が増えることで、需要に応じて迅速に補充できるのです。
しかし、マウスの脳室下帯にある星状細胞は特殊で、既に栄養供給という「職」に就いているにもかかわらず、幹細胞として未熟な細胞を生成する機能も持っています。
つまり、「幹細胞らしくない細胞」が幹細胞として機能しているのです。
脳の他の場所に存在する星状細胞には、こうした幹細胞の機能は確認されていません。
当初の研究は、「なぜ既に特定の役割を持つ細胞が、幹細胞としての能力を持つ場合と持たない場合があるのか?」という疑問に答えるために始まりました。
しかし、研究が進むにつれ、脳の様々な場所に存在するこの栄養供給役の細胞が、幹細胞に再プログラムできることがわかってきたのです。
脳細胞(星状細胞)と脳幹細胞の差は意外な部分にあった
なぜ脳室下帯にある星状細胞(アストロサイト)だけが幹細胞としての働きを担っているのか?
脳の各所に大量する他の星状細胞は幹細胞にはなれないのか?
謎を解くために、ドイツがん研究センターはマウスの脳室下帯から、通常の星状細胞と脳幹細胞としての機能を持つ星状細胞の両方を取り出し、どんな遺伝子が活性化しているか、またどんな遺伝子にロックがかかっているかを調べました。
私たちの細胞内部の遺伝子は、その全てが常に全力で働いているわけではありません。
皮膚や胃、脳、肝臓など異なる種類の細胞では、異なる遺伝子が活性化し、また逆に特定の遺伝子が勝手に動かないようにロックする仕組みがあります。
あらゆる細胞の核内には全ての設計図を収めたゲノムが収められていますが、皮膚や胃として機能するには、必要な設計図だけを使う必要があるのです。
もしこの仕組みが働かなくなると、皮膚で胃酸が生成されたり、脳に毛髪が生えてしまうことになるでしょう。
この遺伝子のロックにおいて重要な役割を果たしているのが「メチル化」と呼ばれる過程です。
特定の遺伝子にメチル基を持ったタグ分子が付着することで「この遺伝子はこの細胞では使わない」と宣言することができるのです。
では、脳室下帯から取り出した普通の星状細胞と幹細胞としての機能を持つ星状細胞は何が違ったのでしょうか?
研究者たちが2種類の星状細胞を調べたところ、遺伝子の活性パターンはほとんど変わらなかったものの、メチル化パターンが大きく異なり、通常の星状細胞ではロックがかけられている特定の遺伝子が、幹細胞としての機能を持つ星状細胞ではロック解除の状態にあることが判明しました。
逆を言えば、普通の星状細胞は特定の遺伝子にロックをかけることで、幹細胞としての機能を勝手に持たないようにしていたのです。
脳のどこにでもある普通の星状細胞が全て幹細胞になってしまうと、脳のあちこちで新たな脳細胞が生まれ、脳回路に恐ろしい混乱が起こってしまうでしょう。
コンピューターの基盤でたとえるならば、マザーボードの上に無秩序に新規回路が形成されるのと同じことが起こるはずです。
正常な脳機能を守る上で、このロックは重要な役割を果たしているのです。
しかしここで研究者たちは、あえてこのロック機能を外すことにしました。
遺伝子のロック解除(脱メチル化)で幹細胞が生まれる
なぜ幹細胞化を抑えているロック機能を外したのか?
それはロック機能を外すことで「正常でなくなってしまった脳」を救える可能性があったからです。
たとえば脳卒中や事故などで大量の脳細胞を失ってしまった人のロックを解除できれば、新たな脳細胞を獲得し、失われた機能を回復する手助けができるかもしれません。
具体的には、普通の星状細胞におけるメチル化パターン(ロックパターン)を幹細胞のそれに変更しました。
先に述べたようにメチル化は特定の遺伝子をロックし、細胞が特定の機能を持たないようにする過程ですが、ここではロックを解除(脱メチル化)することで、細胞が幹細胞として再プログラムされました。
(※変更にはCRISPR-Cas9ベースの技術が使われました)
すると驚いたことに、普通の星状細胞が再プログラムされ、幹細胞としての機能を持つようになったことが判明。
さらに再プログラムされた幹細胞は分裂を開始し、新しいニューロンの前駆体(ニューロンに成長する細胞)を生成することに成功しました。
また、この過程にはDNAメチル化を促進する「DNMT3」という酵素が重要な役割を果たしており、この酵素が欠けている変異体では、幹細胞への再プログラムがうまく進行しないことも確認されました。
しかし、人工的なパターン変更が自然界でも起きている現象であるかどうかは、まだ明確ではありません。
そこで研究者たちは、脳内の自然な回復プロセスを調べるために、マウスに脳虚血(血流不足)を引き起こす実験を行いました。
脳虚血では、血液供給が不足して脳細胞が酸素欠乏に陥り、一部のニューロンが死滅します。
以前の研究から、このような脳損傷が起きた場合、脳内で新しい神経細胞が生まれることが知られています。
脱メチル化によるロック解除の仕組みはこのプロセスでも起きていたのでしょうか?
調査にあたっては、生後2か月のマウスの脳動脈を22分間にわたり締めて虚血と細胞死を再現し、部分的なニューロンの死滅を引き起こしました。
そして2日後と21日後に脳室下帯からもともとは普通の星状細胞であったものを取り出し、ロックパターンが変化しているかを調べました。
(※事前に普通の星状細胞だとわかるように目印をつけておきました)
通常の星状細胞が幹細胞としてのロックパターンに移行していることが確認されました。
また、同様の変化が脳室下帯の外側でも見られ、神経前駆細胞の数も増加していました。
この結果は、脱メチル化の変化が脳内の自然な回復プロセスの一部である可能性を示しています。
もし、このようなメチル化のロック解除を誘導する薬剤を開発できれば、病気や事故で失われたニューロンを再生させる治療法として活用できるかもしれません。
生成された新しいニューロンは、失われた記憶や人格そのものを復元するわけではありませんが、残存するニューロンと接続することで、記憶や認知機能の回復を促進する可能性があります。
研究者たちは今後、ヒトにおける脳再生技術の応用を目指して研究を続けると述べています。
脳の再生は健康寿命の延長やアンチエイジングにおいても重要な課題です。
もしかしたら未来の病院ではアルツハイマー病患者や脳卒中患者、さらに最近物忘れが気になる人などに対して「脳細胞補充薬」が処方されるようになっているかもしれません。
参考文献
Epigenetic changes reprogram astrocytes into brain stem cells
https://www.eurekalert.org/news-releases/1056564
元論文
DNA methylation controls stemness of astrocytes in health and ischaemia
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07898-9
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部