12世紀末、平安の乱世。
源氏と平氏がぶつかり合った男たちの抗争の中に、一人の女武者がいたことをご存知でしょうか。
その名前は「巴御前(ともえごぜん)」。
彼女は信濃国(現在の長野県)の武将「木曾義仲(きそ・よしなか)」に仕えた無双の戦士として語り継がれています。
言い伝えによると、巴御前は色白の美しい容姿を持ちながら、敵兵を次々と射ち倒す弓の使い手だったという。
血生臭い時代の中で、彼女はどのような生涯を送り、どんな最後を迎えたのでしょうか?
目次
- 巴御前は『平家物語』にのみ登場する人物
- 無双の女武者「巴御前」の活躍
- 巴御前、最後の戦い
巴御前は『平家物語』にのみ登場する人物
実は巴御前の生涯を包み隠さず、明らかにすることはできません。
というのも彼女についての記述は、源平の戦いを描いた『平家物語』とその異本(※)にしか記述がないからです。
(※ 『平家物語』には、琵琶法師が口承で語り継いだ「語り本系」と、写本として残した「読み本系」があり、その中で内容や巻数が少しずつ異なるバージョンがたくさん派生しました。この別バージョンを「異本」といいます)
しかも巴御前の話は『平家物語』の中の「木曾最期」の章段だけに登場します。
そこで彼女の素性を紐解くには、木曾義仲のストーリーを追うのが一番なのです。
義仲、父を殺され信濃国へ
義仲は源氏の武将である源義賢(みなもとの よしかた)の長男として、1154年に武蔵国(今の東京と埼玉)に生まれました。
義賢はのちに鎌倉幕府を開く源頼朝の父・義朝の弟にあたるので、義仲は頼朝と従兄弟の関係にあります。
義仲の幼名は「駒王丸(こまおうまる)」でした。
ところが駒王丸が2才になった頃、義賢は実の兄である義朝により殺されてしまいます。
これには源氏の複雑な勢力争いが絡んでおり、義朝が弟である義賢の力が大きくなるのを恐れたためと伝えられています。
そこで駒王丸は武蔵国から、乳母の実家がある信濃国の中原兼遠(なかはらのかねとお)の下で庇護されることになりました。
この中原兼遠の妻であり、駒王丸の乳母だったとされるのが千鶴御前(せんつるごぜん)という女性。
そして中原兼遠と千鶴御前の間にできた娘が「巴御前」だったのです。
(巴御前の生没年は不詳ですが、義仲と同じ年か少し下くらいと見られています)
こうして駒王丸は信濃国の信州木曾を”第二の故郷”として、兼遠に武術指南を受けながら逞しく成長していきました。
このとき、駒王丸は兼遠の実の息子であり、のちに自身の家臣となる「今井兼平(いまいかねひら)」や「樋口兼光(ひぐちかねみつ)」と兄弟同然のような関係を築いています。
おそらく、巴御前も彼らに混じって武術訓練を受け、男勝りの女武者へと成長していったのでしょう。
そして駒王丸は元服して「木曾義仲」と改名し、巴御前らと共に平安の乱世へと身を投じていくのです。
無双の女武者「巴御前」の活躍
時は1180年、京の都では不穏な空気が漂い始めていました。
平氏の武将・平清盛がクーデターを起こし、天皇である後白河法皇を幽閉して、さらには後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)の領地まで没収しました。
こうした一連の横暴に耐えかねた以仁王は、全国各地の源氏に平家討伐の兵を挙げるよう命令を発します。
ここに源氏と平氏の一大戦争が勃発し、源氏の一門である木曾義仲も戦地に出陣することになったのです。
そして、その側には美しき女武者である巴御前の姿もありました。
巴御前、戦場の鬼神となる
義仲率いる源氏軍は信越・北陸各地を転戦し、連戦連勝を重ねます。
中でも獅子奮迅の活躍をしたのが巴御前でした。
彼女は男もなぎ倒す怪力と正確無比に敵を射抜く弓の使い手であり、1181年の横田河原の戦いでは敵七騎を討ち取って名を上げました。
『平家物語』には「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記されています。
美人で最強というアニメのような人物だったようですね。
勢いに乗る義仲軍は徐々に京の都へと勢力を伸ばし、1183年7月にはついに京都から平家一門を追い出して、上洛(京都に上ること)に成功します。
その活躍が認められた義仲は、後白河法皇から「朝日の将軍」という称号を与えられ、人生の絶頂期を迎えました。
しかし『平家物語』の有名な出だしに「盛者必衰の理をあらはす(どんなに勢い盛んな者も必ず衰える)」とあるように、彼の栄華も長くは続きませんでした。
巴御前、最後の戦い
京都に入り、発言力を持った義仲でしたが、次期天皇の後継者問題において後白河法皇と対立します。
義仲は「平家討伐の声を挙げた以仁王の遺児こそ天皇にふさわしい」と意見しましたが、後白河法皇は「孫である安徳天皇の弟を天皇に即位させる」とこれを却下。
結局、義仲の声は届かず、1183年8月に安徳天皇の弟が「後鳥羽天皇」として即位を果たしています。
さらに後白河法皇は、京都まで共に戦ってきた義仲の仲間たちを甘言で次々と取り込み、義仲を孤立させました。
これに不信感を募らせた義仲は、後白河法皇の御所である法住寺(ほうじゅうじ)を襲撃し、「法住寺合戦」が勃発。
後白河法皇を幽閉した義仲の立場は急転直下、今後は逆賊として源氏勢に追われる身となったのです。
そして1184年1月、京都の宇治川に追い込まれた義仲たちは、最後の戦となる「宇治川の戦い」を迎えます。
義仲軍の兵力はわずかに200騎。これに対し、頼朝から派遣された源義経が率いる源氏軍の兵力はおよそ6万騎。
もはや最初から勝負の見えた戦いでした。
『平家物語』にも、義仲軍の味方が減っていく様子や討ち死にした兵士たちの名前が書き残されています。
しかしこの状況下にあっても、一人、鬼神のような戦いを見せたのが巴御前でした。
巴は圧倒的不利な戦況に微塵も怯むことなく、次々と相手を討ち取っていきました。
その豪傑ぶりに唖然として敵将・畠山重忠(はたけやま・しげただ)は従者に対し、「あの女は何者か?」と問い尋ねます。
そこで従者は巴御前についてこう述べました。『平家物語』に記されている一文です。
「強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。(中略)軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」
(=強弓の使い手で、荒馬乗りの達人。(中略)戦においては大将軍として勇猛果敢に戦い、ただの一度も失態を犯したことなし。今井兼平や樋口兼光の兄弟で、彼らに劣らぬ怖ろしい人物です)
このように巴御前は敵将も舌を巻くほどの戦いを見せましたが、負け戦に変わりはありませんでした。
命からがら京都から脱出した義仲勢が琵琶湖のほとりにたどり着いた頃には、義仲・兼平・巴を含め、わずか7騎しか生き残っていなかったのです。
しかしすぐ背後には数千騎の源氏軍が迫ります。
ここで義仲は側にいた巴御前にこう言いました。
「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後まで女を連れていたなどと言われるのは武士としての恥だ」
少し辛辣な言い方にも聞こえますが、大切な存在である巴御前を生き延びさせるためにこう言い放ったのでしょう。
これに対し、巴は「最後までお側におります」と言い張りましたが、義仲は頑としてこれを聞き入れず、「早く立ち去れ!」と繰り返します。
そうして巴は覚悟を決めたのか、「最後の戦してみせ奉らん(=最後の奉公でございます)」と言うや、豪傑として知られた追手の敵将・恩田八郎師重(おんだのはちろう・もろしげ)に一騎討ちを仕掛け、馬から引きずり落とすなり、首を切り取りました。
敵勢が唖然とする中、巴は武具を脱ぎ捨て、後を振り返ることもなく一散に東国(あづまのくに、現代の関東地方)の方角へと走り去ったのです。
巴が去った後、義仲は兼平と2人だけになってしまい、ついには敵の矢に射抜かれて命を落としました。
享年31歳でした。
主君の最後を見届けた兼平も後を追うように自害したと伝えられています。
これが『平家物語』で語られる巴御前についてのすべてです。
その後、彼女がどうなったかは詳しく語られていません。
異本の中では、越後国(現在の新潟県)に移り住んで尼となり、91歳まで長生きしたとの説もあります。
巴御前については『平家物語』にしか登場しないため、「本当に実在したのか」「創作された人物の一人ではないのか」との専門家の意見もたくさんあります。
確かにフィクションとして脚色をしていることは間違いないでしょう。
しかし主君に最後まで寄り添い、平安の乱世を生き抜いた一人の女武者が実在したことは信じたいところです。
参考文献
Tomoe Gozen –A fearsome Japanese Female Warrior of the 12th Century
https://www.ancient-origins.net/history-famous-people/tomoe-gozen-fearsome-japanese-female-warrior-12th-century-002974
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部