「カスパー・ハウザー」
皆さんはかつてドイツに実在したこの少年の名前をご存知でしょうか。
彼は歴史上、最も謎めいた人物のひとりとして今日も世界中で語り継がれています。
カスパー・ハウザーは16歳頃に忽然とドイツの町に現れ、人々の注目を集めたわずか数年の後、何者かに暗殺されて短い生涯に幕を閉じています。
カスパーは一体いつどこで生まれて、どのような人生を過ごしてきたのか。
出自に関する最新のDNA研究も合わせて、彼の数奇な人生を一緒に振り返ってみましょう。
目次
- 謎の少年が発見された日
- 人並み外れた「超感覚」を持っていた!
- 何者かの手によって「暗殺」される
謎の少年が発見された日
1828年5月26日、ドイツの都市ニュルンベルクにあるウンシュリット広場では、キリスト教の祭日である聖霊降臨祭が終わったところでした。
そんな中、広場の片隅にてボロボロの衣服を着た一人の少年が発見されます。
年齢は16、7歳ほどで、身長は150センチもないくらい小柄だったという。
衛兵たちは少年に「どこから来たのか?」「家はどこにあるのか?」など身元の質問をしましたが、言葉がわからないのか、少年はまともに答えることができませんでした。
ただ何を聞いても「ヴァイス・ニヒト(わからない)」とだけ答えたといいます。
その後、衛兵は少年を詰所(つめしょ)に連れて行き、紙とペンを渡して、何か書くように促します。
そこで少年が書いたのは、たった一つの言葉でした。
「カスパー・ハウザー(Kaspar Hauser)」
少年はどうやら自分の名前を書いたようだったのです。
さらにカスパーは2通の手紙を携えていました。
それはニュルンベルク駐屯地の第6騎兵隊に務めるフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉に宛てた手紙でした。
手紙の文章は誤字や脱字が目立つものでしたが、そこには
・少年のファーストネームが「カスパー」であること
・誕生日は「1812年4月30日」であること
・少年の父親は騎兵だったが既に死んでいること
・父と同じ騎兵に採用してほしいが、手に余るようなら殺してほしいこと
などが書かれていました。
手紙の内容が本当かどうかは定かでありませんが、カスパーはどうやら手紙の主から捨てられた浮浪児だったようなのです。
ヴェッセニヒ大尉は手紙の主について何の心当たりもなかったため、カスパーは結局、孤児として市当局の保有する小さな塔の中で暮らすことになります。
そして保護下に置く中で、人々はカスパーが常人とはかけ離れた”超感覚能力”の持ち主であることに気づくのです。
人並み外れた「超感覚」を持っていた!
保護されたばかりのカスパーは言葉を理解したり、まともに話すことができず、普通に育っていれば身につくはずの常識や人間らしさがありませんでした。
例えば、おもちゃの犬と本物の犬の違いがわからず、同じように接したり、鏡の中の像を手でつかもうとしたりしたのです。
また食事に関しても、肉と牛乳を与えるとすぐに吐き出してしまい、パンと水しか食べることができませんでした。
カスパーの感覚の鋭さは異常で、暗闇の中でも聖書の文字が読めたり、色彩を判別することができました。
また金属を握っただけで鉄や真鍮などの材料を当てられたり、遠く離れたクモの巣に獲物がかかっていることを言い当てたりしたのです。
加えて、見たものを一瞬で覚えられる「瞬間記憶能力」を持っており、そのおかげで絵を描く能力が著しい速度で上達していきました。
その反面、鋭敏すぎる感覚ゆえに、普通の刺激にも苦痛を受けたといいます。
例えば、昼間の明るい光や騒音に痛みを感じたり、群衆の前に連れて来られると平静を保つことができませんでした。
こうした異常な感覚能力から、人々はカスパーが「かなりの長期にわたって暗い地下牢にたった独りで閉じ込められていたのではないか」と推測するようになったのです。
ただカスパーの超感覚はごく普通の生活を送るにつれて徐々に消失していったそうです。
光や音の刺激にも慣れていき、群衆の前に立っても落ち着いていられるようになりました。
こうしてカスパーの名前と容姿が人々の間に知れ渡るにつれて、ある一つの噂が広がり始めます。
それが「王族であるバーデン大公家に顔が似ている」というものでした。
このことから「カスパーはバーデン大公家の世継ぎだったのではないか」との説が噂されるようになるのです。
しかしその真偽が明らかになる前に、カスパーは悲惨な最期を遂げることになります。
何者かの手によって「暗殺」される
バーデン大公家の世継ぎ説については、今日でも議論が続いています。
その説によると、カスパーは元々、バーデン大公カールとその妃ステファニー・ド・ボアルネの子供であったが、カールと別の女性との間にできた子供を後継ぎにするためにすり替えられたのではないかとするものです。
しかしこの噂が大きくなり始めた頃に悲惨な事件が起こります。
1833年12月17日にカスパーは正体不明の男にナイフで刺され、それが原因となって亡くなってしまったのです。
実はその頃、カスパーは人々の教育によって自らの出自を少しずつ語り始めているところでした。
それによると、カスパーは予想通り、幼少期から地下牢に閉じ込められていたと話したのです。
地下牢は立つこともできないほど天井が低く、太陽の光が差し込まないほど真っ暗で、木製の馬のおもちゃが与えられていたのみだったという。
そして朝起きると手元にパンと水が置かれていて、排泄は近くにあったバケツで済ませていました。
この監禁生活が解放されるまで何年もずっと続いていたのです。
しかしそれ以上の真相を聞き出す前に、何者かの手によってカスパーは暗殺されてしまいました。
カスパーの出自がバレることを恐れた者による犯行なのか、その後も犯人の正体はわかっておらず、カスパーは約21年という短い人生に幕を閉じています。
最新のDNA研究で「バーデン大公家の世継ぎ説」が否定
そんな中、英バース大学(University of Bath)は最近、「バーデン大公家の世継ぎ説」を否定する研究を発表しました(iScience, 2024)。
博物館に保管されているカスパーの毛髪や血液サンプルを調べたところ、母親から受け継がれるミトコンドリアDNAの型がバーデン大公家の血族のものと一致しないことが確かめられたのです。
このことからカスパーはバーデン大公家の世継ぎではなかったと考えられます。
となるとカスパーにまつわる謎はさらに深まるばかりです。
カスパーは一体いつどこで生まれたのか。誰が何のために彼を地下牢に監禁し、突然町に捨てたのか。
そして誰がどのような目的でカスパーを暗殺したのか。
カスパーの名誉のためにも真実が明らかになることを願うばかりです。
その一方で、カスパーの数奇な人生は文学や映画、音楽などに大きな影響を与え続けており、最後に亡くなった地のアンスバッハでは今でも2年ごとにカスパーのための祭礼が行われています。
参考文献
New DNA analysis helps bust 200-year-old royal conspiracy theory
https://www.bath.ac.uk/announcements/new-dna-analysis-helps-bust-200-year-old-royal-conspiracy-theory/
The Mystery of Kaspar Hauser
https://www.livescience.com/44375-the-mystery-of-kaspar-hauser.html
元論文
Invited manuscript to the Special Issue of iScience on “Advances in Biomolecular and Bioelemental Archaeology and Forensic Sciences.” Kaspar Hauser’s alleged noble origin – New molecular genetic analyses resolve the controversy
https://doi.org/10.1016/j.isci.2024.110539
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部