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人形となって多くの人命を救う「セーヌ川の身元不明少女」のデスマスク


1880年代の終わり頃、パリを流れるセーヌ川の辺りで一人の少女の遺体が引き上げられました。

身元不明で、名前も年齢も出自もまったくの謎。

どのようにパリで暮らし、なぜセーヌ川で溺死したのか、何にも分かりませんでした。

それゆえ、遺体は「セーヌ川の身元不明少女(l’Inconnue de la Seine)」と呼ばれるようになります。

謎の死を遂げた少女ですが、彼女は後の世で”史上最もキスされた唇(The Most-Kissed Lips in All of History)”として、数えきれない程の人命を救うことになるのです。

誰もが一度は目にしたことのある心肺蘇生法の訓練用マネキン。その顔は彼女のデスマスクを参考に作られています。

なぜ彼女は、死後そんな数奇な運命を辿ることになったのでしょう?

目次

  • 名前も年齢も出自もまったく不明の「美しき遺体」
  • なぜ「史上最もキスされた唇」になったのか?

名前も年齢も出自もまったく不明の「美しき遺体」

少女の遺体はセーヌ川から引き上げられた後、パリの霊安室に運ばれました。

16歳前後と推定され、遺体にケガや暴行の痕跡が一切なかったことから、自殺の線が高いと見られています。

少女は身元確認のため、他の無名の死者とともに一般公開されました。

この身元不明の遺体展示は当時のパリで人気のある見せ物だったようで、「パリでこれほど見物人を集めるショーはない」といった記録が残っています。

身元不明の遺体はパリ市民に公開された
Credit: commons.wikimedia

このときも大勢の見物人が来たそうですが、少女の家族や友人、知人は現れず、身元も分からずじまいでした。

しかし、穏やかな微笑をたたえた少女の美しい顔は、多くの人の心を強く揺り動かします。

霊安室の係員もその一人で、少女の美しさに魅せられた彼は石膏型の職人を呼び、デスマスクを取らせました。

こうして作られたのが、こちらのマスクです。

「セーヌ川の身元不明少女」のデスマスク
Credit: commons.wikimedia

少女のデスマスクはたちまち大評判となり、パリはおろか、続く数年のうちにヨーロッパ中で複製が作られ、土産物屋などで売られるようになったのです。

特に1900年以降は芸術家の間で人気を博し、デスマスクを自宅の壁に飾ることが流行となりました。

また、少女のマスクをモデルにデッサンをしたり、彼女の謎めいた人生を小説のネタにすることも流行ったそうです。

フランスの小説家アルベール・カミュ(1913〜1960)は、少女の微笑を「溺死したモナリザ(drowned Mona Lisa)」と表現しています。

画家はデスマスクをモデルにデッサンに勤しんだ
Credit: Char –De « L’inconnue de la Seine » à Resusci Anne(2022)

もちろん、夢中になったのは芸術家だけでなく、少女の魅惑的な微笑は文化的アイコンとして、ヨーロッパ中の居間に飾られることになりました。

批評家のアル・アルヴァレスは著書『The Savage God』(1971)の中で「ドイツでは、ある世代の女子の大半が少女の顔を見本とした」と書いています。

そして、少女の死から半世紀以上が経った頃、デスマスクはまったく新しい分野で命を吹き込まれることになるのです。

なぜ「史上最もキスされた唇」になったのか?

ノルウェーの玩具職人、アスムンド・レールダル(Asmund Laerdal:1914〜1981)は、1940年代初めから子どものための木製玩具を作るようになりました。

レールダルは戦後、大量生産され始めた新素材のプラスチックに目を付け、柔軟で加工しやすいこの材料を使って、玩具を作り始めます。

その中で生まれた有名な玩具が「アン(Anne)」と呼ばれる少女の人形です。

アン人形は、戦後ノルウェーで絶大な人気を博し、ある年の年間最優秀玩具にも選出されています。

一斉を風靡したアン人形
Credit: Char –De « L’inconnue de la Seine » à Resusci Anne(2022)

そんなある日、麻酔科医のグループがレールダルの元を訪ね、「新たに開発された心肺蘇生法(CPR)を実演するための人形を作ってほしい」と申し出ました。

そこでレールダルは、CPRを開発したオーストリア人医師ピーター・サファル(1924〜2003)をはじめとする研究者たちと共に「救命措置の練習ができる実物大のマネキンを作る」という歴史的なプロジェクトを開始。

レールダルは技術的な問題もさることながら、「人形の顔はどんなものにすべきだろうか」と考えました。

あれこれと思いを巡らす中でピンと来たのが、義父の家の壁に飾っていた美しい少女のマスク、そう「セーヌ川の身元不明少女」だったのです。

少女のデスマスクをモデルにCPR用のマネキンの顔を作成
Credit: Char –De « L’inconnue de la Seine » à Resusci Anne(2022)

こうしてレールダルは、アン人形を作る手法と名前はそのままに、実寸大のボディにセーヌの少女の顔を取り付け、人工呼吸の練習ができるよう唇を開くなどの修正を加えて、CPR用のマネキンを完成させました。

これが「レスキュー・アン」、アメリカでは「CPRアニー(CPR Annie)」と呼ばれる医療用人形です。

レスキュー・アン(またはCPRアニー)
Credit: Laerdal –A rich heritage

1960年代に発売されて以来、このマネキンは史上初、そして最も成功した「患者シミュレーター」として、何億人もの人々がCPRの救助方法を学ぶことに貢献したのです。

また、レスキュー・アンは世界中の心肺蘇生法の講習会でも使われるようになりました。

その中で、彼女のマスクは「史上最もキスされた唇」と呼ばれるようになったのです。

実演をしている男性はレールダル本人
Credit: Laerdal –A rich heritage

豪ウェストミード小児病院(CHW)のマリノ・フェスタ(Marino Festa)医師は「このマネキンのインパクトは絶大なものでした」と話します。

「レスキュー・アンは実物そっくりの顔を取り入れることで、蘇生トレーニングの臨場感を高め、臨床医と一般人の両方が真剣にCPRトレーニングに取り組み、その結果、人命救助の習得をスムーズなものにしたのです」

現在、ノルウェーに拠点を置くレールダル(Laerdal)社は「救命への貢献」という使命のもと、救命率を高めるための医療プログラムや製品を提供しており、25カ国で2000人以上の社員を抱えています。

余談ですが、マイケル・ジャクソンの名曲「Smooth Criminal」の歌詞にある「Annie, are you OK?(アニー、大丈夫?)」のリフレインは、レスキュー・アン(CPRアニー)に話しかける救命練習の言葉から来ています。

「セーヌ川の身元不明少女」は、人命救助の普及のみならず、世界中に知れ渡る名曲の誕生にも一役買っていたのです。

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参考文献

How a Dead Girl in Paris Wound Up With The Most-Kissed Lips in All of History https://www.sciencealert.com/how-a-dead-girl-in-paris-wound-up-with-the-most-kissed-lips-in-all-of-history De « L’inconnue de la Seine » à Resusci Anne https://char-fr.net/De-L-inconnue-de-la-Seine-a-Resusci-Anne.html
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