2022年の米国ワシントン大学(University of Washington)の研究によると、自殺について考えたり自傷を行うと、ネガティブな感情が緩和するという。
これは心の痛みに対して肉体の痛みや死の恐怖をぶつけることで、何らかの調節機構が働き、ストレスの解消が可能になるのだと考えられています。
ただし、この方法は「悪魔との契約」に似ており、一時的な心の安らぎが得られる代償として、痛みや恐怖に耐性がついてしまい、本当の自殺を起こしやすくなるようです。
しかし、いったいどうして自殺念慮や自傷行為がストレス解消につながるのでしょうか?
研究の詳細は、2022年4月28日付で科学雑誌『Nature human behaviour』に掲載されています。
目次
- 自殺や自傷について考えるとストレスが軽減される
- 心が安らぐのは「感情の調節機能」を借りているから
- 自殺念慮と自傷行為は「悪魔との契約」につながる
自殺や自傷について考えるとストレスが軽減される
自殺を考える自殺念慮(希死念慮とも)や自らの体を傷つける自傷行為は、生き延びようとする生存本能に大きく反する行いです。
しかし意外なことに、10代から20代の5分の1が1度は自殺を真剣に考えたり、自傷行為の経験があることが判明しています。
自殺念慮の場合は、楽に死ねる方法や場所を探したり、死ぬ間際の自分をイメージするといった内容も含まれます。
またリストカットのような流血を伴うものだけでなく、毛をむしったり、手や足の皮を剥いたりといった軽度のものも、医学的には自傷行為として認識されます。
リスカなど自傷行為の根底にある脳のメカニズムを解明https://t.co/Gi5fF18gz0
ミネソタ大は自傷行為する少女たちを集め圧迫面接でストレス反応を調査。結果彼女たちはストレスと戦うためのホルモンが低下していて自傷行為がそれを改善していると判明。自傷行為の脳科学的な理由が一部解明されました pic.twitter.com/Y844ksGjMR
—ナゾロジー@科学ニュースメディア (@NazologyInfo) November 29, 2021
一方、こうした自殺念慮や自傷行為には一時的に「苦しみを取り去る」効果があることが、複数の研究によって報告されていました。
ただ、これまでの研究はどれも小規模であり、調査方法もまちまちなために、結論は持ち越されていました。
そこで今回、ワシントン大学の研究者たちは、既存の38件の研究報告をまとめることで、総計1600人にも及ぶデータを分析することにしました(メタ分析)。
結果、自殺念慮と自傷行為の両方の直前に高レベルの精神的苦痛が存在しており、実行後にはストレスが大幅に解消されていることが判明しています。
どうやら自殺を真剣に考えた後やリストカットをした直後に「気分が良くなる」という現象は、本当に起きているようです。
しかし、本来ならネガディブ感を加速させる自殺や自傷がなぜ、精神的苦痛を減らしたのでしょうか?
心が安らぐのは「感情の調節機能」を借りているから
なぜ自殺念慮と自傷行為が心の痛みを和らげるのか?
研究者たちは、この奇妙な心理の背景には「人間に備わった心の調節メカニズム」が潜んでいると考えています。
人は生きていく過程でさまざまな状況に直面し、そのたびに感情を刺激されます。
しかし全ての刺激に対して感情を剥き出しにすることは、集団生活を不可能にします。
たとえば狩りにおいて獲物を見つけただけで喜びのあまり叫んでしまったり、捕食者が近くに迫ったときに泣きわめいてしまえば、自分だけでなく集団の利益を棄損します。
そのため人間には、自らの感情を調節する機能が備わっています。
研究者たちは、自殺念慮や自傷行為は恐怖や痛みといった命にかかわる緊急事態を発生させるため、心の痛みに構うヒマを無くすような調節機構が働くと考えています。
つまり、心の痛みを肉体の痛みや死の恐怖で流してしまうわけです。
問題は、少なくない人々がこの調節機構の「中毒」になってしまうという点にあります。
自殺念慮と自傷行為は「悪魔との契約」につながる
これまでの研究により、自殺念慮や自傷行為には常習性がうまれることが判明しています。
自殺を考えたり自傷をすることで、一時の心の安らぎを得られることを知ってしまうと、ネガティブな思いをするたびに、同じ方法で逃れるようになってしまうからです。
しかし過去に行われた研究では、自殺念慮や自傷行為を繰り返すことで恐怖や痛みに耐性がついてしまい、本当の自殺を行いやすくなっていることが示されています。
一時の安らぎのために命を落としやすくなる状況は、悪魔との契約と同じように、最終的にはより大きな災いとなります。
研究者たちは、自殺念慮や自傷行為が起こるときに脳で起こる生物学的反応を解明できれば、低リスクで即効性のある「安らぎを得られる薬」を開発できると考えています。
タバコの代替としてニコチンガムが開発されたように、未来の薬局ではリストカットの代替として「リスカガム」が売られているかもしれません。
※この記事は2022年5月公開のものを再掲載しています。
参考文献
Thinking About Suicide and Self-Harming Alleviates Stress
https://neurosciencenews.com/stress-suicide-self-harm-20502/
元論文
A meta-analysis on the affect regulation function of real-time self-injurious thoughts and behaviours
https://www.nature.com/articles/s41562-022-01340-8
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。