TEXT:安藤 眞(ANDO Makoto)
燃料電池車の大きなアピールポイントは、「排出するのは水だけ」ということ。しかし、それを聞いて最初に思ったのは、「こりゃ凍結対策に苦労するぞ」ということだった。案の定、予想は的中。当初は「2004年には実用化」とぶち上げていたメーカーもあったが、実際に“実用化”といえるレベルになるまでには、2015年に発売された初代MIRAIの登場を待たなければならなかった。
燃料電池はスタック内部で水素と酸素が反応し、酸素(空気)極側に水ができる。これがスタック内のガス流路やバルブに滞留し、停止している間に凍結すると、ガスが流せなくなって再始動できなくなってしまう。これをどう克服するかが、各メーカーの知恵の絞り所となる。
ホンダは停止後でもしばらくコンプレッサーを稼働させ、水分を排出してしまうという方法を取っている。しかし、プロトン交換膜は湿潤状態でないと水素イオンを通さないから、再起動時には何かの形で水分を供給する必要がある。そこで、生成した水分をストックしておく外部加湿器を使用しており、再始動時にはここから水分を供給してスタックを起動させる。
独立した加湿器を使えば、湿度の緻密なコントロールが可能になるため、始動時だけでなく始動後の発電も安定させやすくなるが、加湿器にストックした水の凍結対策が必要になるなど、補機が増えてしまうというのが悩みの種だ。
一方でトヨタは、外部加湿器を廃止して低温始動性を確保している。ホンダ同様、停止時にある程度の掃気は行っているが、スタック内に微妙に水を滞留させておき、これを再始動時に使用するというのだ。
それではその水が凍ってしまうのでは?と考えて当然で、常識で考えれば、溶かさなければ再始動は無理だ。ところが、そこに現れた救世主が、“過冷却”という現象である。
水は一般に「0℃で凍結する」と言われているが、ゆっくりと冷却した場合、0℃以下になっても凍結しない。これが過冷却という現象で、純度の高い水ならば、マイナス40℃程度まで凍結しないらしい。
燃料電池スタック内の水分も、温度の下がりかたは非常にゆっくりなので、過冷却状態になりやすく、これを利用すれば、低温始動時の再加湿は可能なのだそうだ。
ところが、過冷却水には厄介な性質がある。振動など外部から衝撃を与えると、分子が安定状態になろうとし、一瞬にして凍結し始めるのだ。その様子は、インターネットの動画サイトで検索すれば、いくらでも見ることができる。
僕がこの現象に初めて遭遇したのは、20年ぐらい前に埼玉の山間部に移住したころだ。家から出て最初の交差点の見通しが悪く、カーブミラーが設置されていたのだが、冬場になると、鏡面が結露して見えなくなってしまう。そこで、クルマの古ワイパーを使って結露を落とすのが、寒い季節の日課となったのだが、ある冷え込んだ日の朝、それは起こった。
いつもの通り、結露した鏡面に古ワイパーを当てたら、その瞬間に、鏡面全体が凍結してしまったのである。僕は当時すでに“過冷却”という現象は知っていたのだが、まさか目の前で起きるとは思ってもいなかったので、一瞬、あっけにとられたのをよく覚えている(翌日から観察するのが楽しみになった)。
それから10年以上経ち、初代MIRAIを取材した際に「過冷却」という言葉に再会するとは思わなかった。実際には08年に発表されたFCHV-advで、すでに過冷却現象を利用していたとのことだが、当時の資料を見ても、その件にはいっさい触れられていない(たぶん、まだ内緒にしておきたかったのだろう)。
ともあれ、既成概念に捕らわれず、観察と思考を続けていれば、どこかに道は開ける、という絶好の例を見せてもらった。