TEXT●三浦祥兒(MIURA Shoji)
時代を一旦戻す。アメリカの自動車メーカーは第一次大戦が終結すると、好景気を背景に荒廃した欧州に進出し、現地生産のための工場を次々に建設する。当初は本国仕様のクルマを生産していたのだが、流石に欧州では大きすぎ、高すぎた。フォードはイギリス向けに専用車種であるモデルYを開発。一方GMは、当時ドイツ最大の自動車メーカーであったオペルに目をつけ、買収によって欧州の拠点を築こうとした。本国では需要のない小排気量エンジンと小型車について、アメリカメーカーはこうしてその技術的素養を身につけていったのだ。
名実ともに自動車王国であったアメリカに暗雲が漂うのは1970年代。排ガス規制の緒端となったマスキー法こそ、各メーカーの猛烈な反対でなし崩しにされたものの、第四次中東戦争が引き起こした原油価格の高騰に大打撃を受ける。
「ガスイーター」として大排気量V8は槍玉に上がり、焦ったメーカーはV8の「ダウンサイジング」を敢行する。とはいっても、VWのように新技術を編み出すのではなく、V8から2気筒を切り落としたV6を作っただけだ。
V6エンジンのバンク角は振動抑制を勘案すると120°が適正となるが、これではエンジン幅が水平対向と大して変わらなくなるため、搭載性を考慮してバンク角を狭める必要がある。その際何も考えないで狭角にすると不等間隔点火となってしまい、振動も出るし音も変になる。V8をぶった切ったV6は90°バンクとなって、レシプロエンジンとしては実にいびつなものになった。イタリアではランチアがバンク間で対向するシリンダーが共用するクランクピンにウェブを挟む「オフセットクランクピン」を考案。力学的に安定した60°V6を1960年に実用化していたが、専用のクランクシャフトが必要な上に、ウェブの厚みの分ボアピッチが増えてしまうので、シリンダーブロックまで専用設計にならざるを得ない。大量のV8エンジンを急いでV6にしなくてはならないのに、そんな設備投資までしたくはないとなれば、出来上がったのは「なんちゃってV6」である。
その頃、欧州でフィアットやBMCミニが先鞭を付け、初代ゴルフによって花開いたFFは、揺籃期を迎え始めていた。
元々パワートレーンを前部に集約し、居住スペースを拡大する目的で拡大したFFだが、利点はそれだけではなかった。デフやプロペラシャフトが不要で、駆動力を受けない後輪の脚回りを簡素化できるFFは、オーソドックスなFRより安く作れるのだ。
エンジンのダウンサイジングで汲々としていたGMは、そこに目をつけた。
欧州GMとなっていたオペルと、当時提携していたいすゞと協同で、「Jカー」なる共通プラットフォームを策定。Dセグメント相当の中型車まで前輪駆動とすることを決めた。フラッグシップとなる車種にはマルチシリンダーが求められたのだが、3ℓ級のマルチシリンダーの常道である直6では長すぎることから、生産が軌道に乗りはじめたV6に白羽の矢が立つ。こうして中間排気量のエンジンはV6が主要な形式となっていった。
一方、1960年代半ばに欧州各国の現地法人を統合していたフォードは、石油ショック以降、欧州仕様のFF小型車を北米に展開し始めた。マルチシリンダーエンジンについても旧弊なOHVを改め、ヤマハが設計に加担した「SHO(Super High Output)」エンジンを開発、シリンダーヘッドの基本要素をV6とV8で共用とし、伝統的な中型セダンの改革を進めた。
そうこうする間に、明らかに格下だった日本車が価格と信頼性で市場を席巻しはじめ、小~中型車マーケットでアメリカ車の占める割合はどんどん縮小する。また、高級車市場でもドイツ御三家が続々と新設計の車種を投入して地位を確立。大型アメ車はFF化の流れに迎合して方向性を見誤り、キャデラックやリンカーンといったブランドは瀕死の状況に陥った。
こうした80年代からの市場変化で、アメリカ車の競争力を支える精神的支柱は、結局大排気量V8とPUTというアメ車特有のものに限られるようになっていったのだ。日本市場からアメ車が淘汰されていったのはこうした事情故である。
結局、アメ車のエンジンは直3と4は欧州設計、V6とV8は北米設計と二極分化してしまったので、EDBの巻末データは少々いびつな区分けになってしまった。先記したようにオペルは未だ多数のGM製エンジンを使い続けているにもかかわらずPSAの項に組み込まれているし、フォードは同じ車種でも北米仕様と欧州仕様ではエンジンの種別がまったく異なるので、二段構えになってしまった。是正するにしてもどこかしら齟齬が生じるので、データ集をよく見てみようという奇特な読者には不便をおかけする次第である。(続く)