(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
僕は昔からオペルが好きで、オリムピア・レコードにも乗っていたし、カデットという小さなのにも暫く乗っていたことがありました。
この原稿を書いている今でも、家の駐車スペースには赤くて小さなアストラのカブリオが、ピカピカに磨いて置いてあります。
何んということもないドイツ製の小型車なのですが、僕はオペルがタウナスやアウディ、それにワーゲンより好きなのです。
昭和33年のその頃、まだ21歳だった僕は、どうして手に入れたのかは忘れましたが、オペルのカピタンを乗りまわしていました。
サイドバルブの直列6気筒でしたが、それほど馬力はなかったのを覚えています。
カタログを調べたら、オペルの最上級車種にはアドミラルというのがありましたが、東京で目にしたことはありません。
丸くてボテッとしたカピタンのフォルムは、今になって思い出すと余り恰好いいとは言えませんが、それでもとても珍しかったので僕は満足していました。
その頃の僕は学生ではありません。
自慢になるようなことではなくて、恥ずかしいことですが、渋谷の安藤組の最末端のチンピラでした。
ある日の朝、兄貴分は、僕に住所と電話番号を書いたメモを渡すと、
「御苦労だが性根の坐った若い衆を連れて、ここへすぐ腕貸しに行ってくれ」
と、言ったのです。
腕貸しというのは業界用語で、一般的には助っ人なんて言います。
つまり喧嘩の応援に行けということでした。
詳しい住所は関係者がまだ御存命なので、書けませんが、メモに書いてあった住所は関西の京都弁を喋るエリアだったのです。
すぐ行けと言われたのですから、とるものもとりあえず飛んで行かなければなりません。
上の者の命令には、絶対服従という社会、親分が「烏は白い」と言えば、子分は「ハイ、烏は白うございます」と、いうのが僕たちのしきたりでした。
ウンもスンもなく、僕は4人の子分を選んで3人はバックシートに乗せて、自分はコ・ドライバーズシートに乗り込むと、運転は達者で注意力のある子分に任せて西へ向かったのです。
まだ名神も東名も開通していませんでした。
僕たち決死の5人を乗せたカピタンは、国道1号線を一所懸命に走ったのです。
東京を午前中に出たのに、そのあたりに着いたときはもう真夜中でした。
矢鱈と茶畑が月明かりに黒々と見えるばかりで、どこを見ても所番地なんか書いてはありません。
「参ったですね。どこをどう行ったら応援に行く先に着くんでしょう」
運転していた若い衆が閉口垂れた声で言ったのに、僕は、今度、電気の灯いている家があったら、メモを持っていって道を訊けと言いました。
61歳になった今は、ひとりも子分のいない僕ですが、40年前には若いのに、結構、何人も子分がいて今よりずっと威張っていたのです。
暫く走ると電気の灯いた家があったので、運転していた若い衆はクルマから降りて、走って道を教えてもらいに行きましたが、少し経って戻って来ると、唾をペッペッと吐き散らして憤然として喚きました。
「メモを見た婆様が、『あ、ここやったら、お行きやしてドーンと当たりはったら上がりなはれ』なんて吐かしやがったんで、ばぁろ、俺たちは自動車で来たんだ。ドーンなんて当たったら、バンパーもフェンダーもひしゃげて走れなくならあ。
おまけに乗ってるのは自動車で、飛行機じゃあねえんだから、上れって言われてもそんなことが出来るわけねえだろうがって、そう言ってやったんですよ」
京都では中心部が碁盤目状になっていて、御所に向かって北上することを「上ル」、南下することを「下ル」と言います。
要するに、真っ直ぐ行って付き当たったら、北の方に曲れといったのですが、これでは若い衆に何回、訊きに行かせても目的地に着けるわけがありません。
茶畑の中を走り出したカピタンの中で、僕は、今度、電気の灯いている家があったら、自分で道を訊きに行くと若い衆たちに不機嫌に叫びました。
こんなところでウロウロしている間に、喧嘩が始まって、終わってしまったら格好がつかないと思うと、僕はイライラしてしまったのです。
喧嘩が終わってから駆けつけた腕貸しなんて、あざ笑われてしまうのに決まっています。
チンピラの僕が嘲笑されるのは、兄貴が笑われ、親分の安藤昇が笑われ、安藤組の400人が笑われてしまうのだと、いつでも教育されていましたから、僕は気が気ではありませんでした。
やっとまた電気の灯いていた家があったので、僕はカピタンから飛び降りて、道路から玄関までの50mほどの暗い道を急ぎました。
「夜分に申し訳ございませんが、道を教えて下さい」
言いながら玄関の引き戸に手を掛けると、鍵を掛けてなくてカラカラと開きます。
内側は土間のタタキで何人か男がいて、夜中だというのに何かしていました。
よく見たら、七輪で竹槍の先を炙っています。
竹槍の先には油が塗ってあって、七輪の火に落ちるとパチパチと弾けました。
何人かいた男は皆、知らない顔で、見れば7枚こはぜの鳶が履く地下足袋を履いています。
戸を開けて道を教えてくれと言った僕を胡乱な顔で見詰めていました。
「あ、敵だ。敵のほうに来てしまったんだ」
と、咄嗟に僕は気がついたのですが、その途端に背中に冷たいものがツーッと流れたのです。
腕貸しに行く先ではなく、なんとドジなことに僕は、敵側に行って道を訊こうとしたのですから、これはもう絶体絶命という場面でした。
振り返って道路のほうをチラリと見たら、本当に阿呆たれた若い衆たちは、クルマから降りて小便をしたり煙草を吸ったりしています。
僕の窮地には誰も気がついていません。
逃げ出したりすれば、僕はたちまち竹槍で突き刺されて、焼鳥のようになってしまうと思ったら、額から冷めたい汗が流れて頬で弾んで、土間のタタキに落ちました。
相手の顔が固くなったのは、不審に思ったからに違いありません。
僕は仕方なくズボンのベルトに差し込んであった、レミントン社のガバメントを摑み出すと、遊底をスライドさせて、2発続けてぶっ放しました。
七輪に当たって大きな音を発てて、爆発したようになると、相手は仰天して必死に逃げてくれたのが僕の幸いだったのです。
ヤケッパチになってやったことが、怪我の功名で長く語り草になって、僕は男を上げました。
昭和33年のその当時はまだゴロツキの主戦武器は日本刀と、それに古式豊かな竹槍でしたから、朝鮮戦争で使い旧したアメリカ陸軍の制式拳銃の大きな音は、相手の度肝を抜いたのです。
オペルのカピタンも、このカバメントも、今では過去の物になりました。
アメリカのシューティング・レンジで、この拳銃を見る度に、僕は40年前のあの晩のことを思い出します。