(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
パリに住んでいたアラン・ギデロドニは、とても巨きな男でした。
身長は178㎝の僕より3㎝ぐらいは高くて、若い頃は67㎏のウエルター級でメインエベンターのボクサーだったのに、50歳を過ぎた85年には、丸々と肥って110㎏を超えていたのです。
「肥ると相手の撃った弾丸が、よく当たってしまうようになる」
94年は1発だけど、95年は2発も当たってしまって、病院で抜き取ってもらったと、久し振りで東京に来て僕と会ったアランは、訛りの強い英語で言いました。
アランは古い友人で、最初にパリで会ったのが63年でしたから、もう35年のつき合いになります。
潰れた鼻のタフなアランは、その当時はパリの下町に住んでいました。
フランス暗黒街映画((フィルム・ノワール)を毎日、ロケではなくて実際にやっていたアウトローだったのですが、僕とはとても気が合ったのです。
「お前さんのフランス語より、まだ俺の英語のほうがいくらかましだ」
と、63年の初対面の時にアランは笑って、それからはずっと僕たちは、英語で話すと決めていました。
66年の春に、日本に居られなくなって物価の安いポルトガルで、ほとぼりを冷ましていた僕が、退屈に堪りかねてパリに行くと、空港まで迎えに来てくれたアランは、
「なんで2週間前にこなかったんだ」
と、叫んで僕のボディに、軽くですが得意のフックをめり込ませたのです。
つい2週間前に、それまでは誰とでも寝ていた女優のミレイユ・ダルクが、アラン・ドロンの専属になってしまったと、アランが言ったのを聞いて、若かった僕も、それは残念なことをしたと心から思いました。
アランは黒く塗った品のいい小型車に乗っていて、僕が訊いたら、
「プジョーさ。俺たちにはこのクルマが一番いいんだ」
なんて言ったのです。
フランスのギャングはアメリカ車が大好きで、大物は皆、キャデラックやリンカーン、そうでもなければクライスラーかビュイックに乗っていましたから、
「どうしてアランは、こんな品のいいフランスの小型車に乗っているんだい」
助手席の僕が言うと、太い腕でハンドルを握っていたアランは、頭を左右に振って肩をすぼめて呟きました。
「ボスはニューヨーカーで、兄貴はリヴィエラに乗っているけど、俺はまだ若い衆だからこのプジョーだ」
これが一番いいのだと、アランは繰り返したのです。
そんなにいいのなら、運転させてみろということで、途中で代ってホテルまで僕が運転したのですが、別にとりたてて何ということもありません。
シトロエンやシムカ、それにルノーといったクルマと、それほどアランの言ったほどの違いがあるとも、僕には思えませんでした。
普通に走るのには十分な、極く平均的で穏やかなエンジンで、足まわりもブレーキも当たり前なのです。
どうして暗黒街の若い衆には、このプジョーが一番なのだろうと、ホテルの前まで来た僕が怪訝な顔をしたら、その時アランはクルマの天井を指差して、
「これだよ」
と、言いました。
何のことだが、それだけではとても分かりません。
僕が不思議そうな顔をしていたら、アランは笑って太い腕を伸すと、スライディングルーフを開けました。
目を上に向けたら青い空が見えて、淡い雲が浮かんでいたのですが、まだこのプジョーがどうして、一番いいのか僕には分かりません。
「何か投げる時でも、散弾銃や自動小銃で撃つ時でも、窓からやるより、助手席に立ってこのスライディングルーフからやるほうが、ずっと具合がいいんだよ」
標準仕様でスライディングルーフが、ついているのはプジョーだけなのだと、不敵なパリの若いギャングは、その時、日本の同業者の僕に言い放ったのです。
そんな旧友のアランが、日本にやって来た85年は、足を洗って小説家を目指していた僕がまだ単行本が出ずに、悪戦苦闘していた頃でした。
ギデロドニという姓は、舌がもつれて僕にはうまく発音できません。
「やあ、随分肥ったな。ヘビー級でカムバックする気かい」
ホテルのロビーで握手した僕が叫んだら、アランの連れていた30歳ぐらいのボディガードが、眉の端をピクピクさせました。
フランス人は積極的には話しませんが、隣りの国の言葉なので英語は分かります。
若いボディガードは、「親方に詰らない冗談を言う日本人だ」と、思ったのに違いありません。
「日本人は魚と米しか喰べないと聞いているのに、お前さんも随分肥ったぜ」
どうしているのだとアランが訊いたので、
「才能が足りないとハッキリ分かったので、俺は足を洗って小説家になろうとしているよ」
と、僕が言ったら、肥った初老のパリギャングは笑って、
「ペンネームは、ナオ・ジョヴァンニにすればいいよ」
なんて言いました。
「穴」や「気ちがいピエロ」で有名なジョゼ・ジョヴァンニも、小説家になる前はギャングだったのです。
その頃の僕はまだ単行本が1冊もなくて、とても貧乏でした。
乗っていたのはホンダのシティのセコハンで、それを見たアランは、自分に運転させろと言って、呆れたボディガードを後ろのシートに押し込めると、僕をコ・ドライバーズシートに乗せて東京の街に出たのです。
アランもクルマが好きな男でした。
「ウン、これはルノーのゴルディニと、ちょっと似た味がある」
なんて言ったアランに、あのスライディングルーフのプジョーは、どうしたと僕が訊いたら、
「ああ、あのプジョーね。随分前のことだな……」
今ではキャデラックのリムジンに乗っていると言って、
「俺は才能もあったし、それに長年、努力もしたから親分になって、もうスライディングルーフのプジョーには乗らなくてもいい」
アランは呟いたのです。
それで、わざわざ日本に来た用事は何だと僕が訊いたら、アランは微笑むと、
「足を洗って小説家になろうとしているのなら、ナオには言わないさ」
誰かフランス語か英語を喋る、頭がよくて仕事が出来る男を紹介して欲しいと言いました。
小さなセコハンのシティに乗っている僕を見れば、足を洗って貧乏しているということは、アランにも察しがついたはずです。
それでも日本に来た仕事の内容は、僕には明しませんでした。
何も言わなくても、足を洗おうとしている僕に対する、アランの深い友情は分かったのです。
見事に小説家になったら、パリに遊びに来い、またピエドコションで一緒にやろうと、肥ったパリのギャングは言いました。
98年は久し振りでパリに行く予定があるので、アラン・ギデロドニと旧交を温めようと、僕は思っているのです。