作家・安部譲二の華麗な自動車遍歴コラム『華麗なる自動車泥棒』連載第2部スタート!クルマが人生を輝かせていた時代への愛を込め、波乱万丈のクルマ人生を笑い飛ばす!月刊GENROQ‘97年4月から56回にわたり連載された『クルマという名の恋人たち』を、鐘尾隆のイラストとともに掲載。青年期からギャング稼業時代、そして作家人生の歩みまで、それぞれの時代の想いを込めた名車、珍車(!?)が登場します。稀代のストーリーテラー安部譲二のクルマ語り!


(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)

第25回 ダイハツ・ミゼット’ 67

 あれは忘れもしません。昭和43年の7月4日でした。


 どうして日付けまで覚えているかというと、その日がアメリカの独立記念日だったからです。


 31歳だった当時の僕は、それから30年も経った今の禿のデブではありません。


 その頃の写真が何枚か残っているのを見ると、スラリとしてキリリとしたマスクの、自分で言うのもなんですが、なかなかの男っぷりだったのです。




 日本航空をクビになった僕は、青山でサウサリトというレストランを経営するかたわら、昭和39年の11月に解散した渋谷・安藤組の残党が集った東興行に籍をおいて、もっぱら博奕を打っていました。


 専門にしていたのは、手本引きという花札賭博でしたが、鴨がいると聞けば競技種目を問わずに、なんでもやったのです。


「アメリカ留学帰りのオニオン・ダックがいるんだが、ポーカーはやるかい」


 と、声が掛った僕は、自慢のブリティッシュ・レーシング・グリーンに塗ったトライアンフのTR3に乗って、四谷のマンションへ出掛けたのでした。


 オニオン・ダックというのは、葱を背負った鴨ということです。


 その30歳ぐらいのお金持ちのボンボンは、若い黒人をひとり連れて来ていたのですが、そんなものは何ということもありません。


 多少、腕がよくても所詮は素人ですから、僕たち玄人には競技種目が何でも、勝てるわけがありませんでした。


 素人は徹夜をしてもせいぜいがふた晩ですが、僕たちにはそんな制約がありません。


 睡たくなればいつでも仲間に代ってもらって、何時間でも睡れるのです。素人は自分以外に信じられる仲間がいないのが普通ですから、そんなデスマッチになればメロメロになってしまいます。


 だから麻雀でも何でも、いくら腕がよくても堅気の方は、プロには勝てないのです。




 喜び勇んでテーブルに坐って、ポーカーを始めた僕でしたが、半日、勝負していてこれはいけないと思いました。


 散々本場のアメリカで場数を踏んだのでしょう。


 そのお金持ちのボンボンは、ポーカーに限ってプロの最高レベルの腕がありました。


 花札が専門の僕とでは、腕に大差があったのです。


 それでもデスマッチに持ち込めば、人間が闘い続けられるのは48時間が限度で、それを過ぎればただ睡りたいだけになってしまうと、僕は知っていたので慌てませんでした。


 ところが丸24時間、経った時にボンボンは、それまでソファーで寝ていた若い黒人を起すと、交替したというのです。


 この小柄な黒人がボンボン以上に達者だったのは、ただただ呆れてしまったのですが、この時に僕は自分が罠にかけられたのを知りました。


 僕ともうひとり、ゲームマシンを扱っていたオッサンを星にして仕組んだ仕事でした。


 星というのはターゲットのことで、仕事というのは作戦計画のことです。


 イカサマだったら開き直りも出来るのですが、桁違いに腕のいい男をふたり揃えたまともな勝負ですから、イチャモンをつけるところが全くありません。


「やられた。なんと俺としたことがまんまと逆に、オニオン・ダックにされちまった」


 オッサンは熱くなって勝負を続けていましたが、僕は丸1日でギブアップしました。


 とても勝てる相手ではないし、やればやるほど傷が深くなってしまいます。


 清算したら、懐に持っていた金より150万円も負けていたので、TR3の鍵を抛り出して、3日待って金が届かなければ売り払って構わないと、僕は言いました。




 表に出たら夜でしたから、僕は行きつけのバーでウイスキーを呑むと決めたのですが、こんなにまんまと仕事にはめられたのでは、吞まなければとても眠れません。


 呑んでいたら横田基地の金髪嬢から電話があって、両親は旅行に行って今夜は帰らないので、家に来てふたりきりの独立記念日のパーティーをしようと言いました。


 まだ17歳だという横田生まれのシンシアは、スタイルがよくて器量のいい、まるでモデルか女優のようないい女だったのです。


 いくら口説いても白人のボーイフレンドがいたので、ウンと言ってはくれなかったのですが、訊いたら三沢基地に行ってしまったとシンシアは言って、朗らかに笑いました。


「その気になった時にすぐ来ないと、パーティーに出掛けてしまって朝まで帰らないわよ」


 なんて言ったのですが、僕には肝心なクルマがありません。


 タクシーで行くのにも、懐には1000円札が何枚かあるだけですから、横田まで行くのには不安がありました。


 さて、どうするか……と、月末払いのバーを出た僕は、北青山の通りで腕組みをして考えたのです。


 好色なヤンキー娘のことですから、そんなには待ってなんかくれません。


 見たら氷屋の前に配達に使うダイハツの3輪車が、いつものように駐っていました。


 キーキーという渾名の運転手を僕はよく知っていて、競馬場で出喰わすと情報を教えてやったりしていたのです。


 その時トレンチコートのポケットにあった小さな鍵が、僕の指に触れました。


 住んでいたアパートの鍵です。


 3輪車の運転席に入り込んだ僕は、ウイスキーがほどよく効いていたのに違いありません。


 試しにそのアパートの鍵を、ダイハツ・ミゼットのイグニションに、差し込んでみたのですが、こんなことは素面(しらふ)でやれるようなことではありませんでした。


 ツルリと納ったアパートの鍵を、指で捻ると、セルモーターがまわってブスブス、バッバッバとエンジンがかかったのです。


「呆れた。なんてクルマだ」


 と、声を出して叫んだ僕は、これは神様が日米親善をさせようと思っていらっしゃるのだと思いました。




「飛べ、飛べ、土(つち)の子(こ)」


 と、シンシアと女友達がよく叫んでいる日本の言葉を、僕も大声で繰り返しながら、遅いクルマを威勢よく走らせて、横田へ急いだのです。


「なんだ、その、飛べ飛べ土の子ってのは。土の子は蛇だから、どうしたって飛ぶわけはないだろうに……」


 と、ある時、僕が言ったら、シンシアと女友達は大笑いして、日本語の片仮名で書いて逆から読んでみろと言いました。


 親の顔が見てやりたいと思ったほど、助平な娘たちでしたが、救いは底抜けに陽気なことでした。




 弱馬力の氷屋のダイハツ・ミゼットに乗って、家まで来た僕を見ると、シンシアは怪訝な顔をしたのです。


 車道楽の僕が、何か凄いクルマでやって来ると思ったら、非道い排気音を発ててガタガタとやって来たので、呆れてしまったのに違いありません。


「これで40マイルも出すと、キャデラックで120マイル出した時ほど速く感じるんだ」


 と、僕が言ったらシンシアは、そんなことはどうでもいいから、早く家の中に入って、暑いから全部脱いで独立記念日を祝おうと言いました。


 今でも7月4日には、素敵だったシンシアと、ダイハツ・ミゼットを僕は思い出します。

情報提供元: MotorFan
記事名:「 安部譲二の華麗な自動車遍歴コラム ダイハツ・ミゼット’ 67