作家・安部譲二の華麗な自動車遍歴コラム『華麗なる自動車泥棒』連載第2部スタート!クルマが人生を輝かせていた時代への愛を込め、波乱万丈のクルマ人生を笑い飛ばす!月刊GENROQ‘97年4月から56回にわたり連載された『クルマという名の恋人たち』を、鐘尾隆のイラストとともに掲載。青年期からギャング稼業時代、そして作家人生の歩みまで、それぞれの時代の想いを込めた名車、珍車(!?)が登場します。稀代のストーリーテラー安部譲二のクルマ語り!


(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)

第21回 フォード・セダン’49

「わぁ、凄い。あのクルマは何て言うんだ」


 今で言う西麻布、当時の霞町の交差点で、高樹町の方から降りて来て、グイグイと加速して六本木の方に坂を登って行ったクルマに、水野忠夫君はほとんど絶叫しました。


 昭和25年の夏休みの少し前のことです。


「48年式からフォードは、それまでの丸っこいボディではなく、あの素晴らしい形に変わったんだが、確か、今、六本木の方へ行ったのにはフロントガラスにセンターピラーがなかったように見えたから、あれは49年式かもしれない」


 と、答えたのは、右手にラグビーのシューズを提げていた13歳の僕でした。


「何年式にしても、自動車って決してあれ以上は、どうしたって美しくはならないよね」


 と、感動を隠そうとはせずに、少年らしく叫んだのは橋本龍太郎君で、僕たち3人はとっても仲の良い、1年1組の同級生だったのです。




 強大なアメリカを相手に、何の科学的な見通しもなく、はじめてしまった太平洋戦争は、当然のことですが日本のこっぴどい負けで終わって、東京はアメリカ空軍の焼夷弾で焼野原になってしまいました。


 日本が連合軍に降伏したのは昭和20年の8月15日のことでしたから、僕たち3人がフォードの新車に息を呑んだのは、それから僅か5年しか経っていません。


 戦争に負けた日本は、今の豊かな日本に生まれ育った若い方たちの想像を、遠く超えていました。


 衣食住の全てが致命的に不足していたのです。


 僕が、右手に提げていたラグビーのシューズは、叔父が学生時代に履いていたお古でした。


 ほんのひと握りの政商や成金を除いて、ほとんどの日本人が、信じられないような惨めな暮らしをしていたのです。




 中学1年の僕たち3人も、極く普通の家庭で育ったので、贅沢なんてとてもできません。


 アメリカ映画の巨きな七面鳥やローストビーフの固まりを切るシーンでは、薩摩芋で飢えを凌いでいた僕たちですから、映画館の中で、揃って溜息をつきました。


 しかし、これは僕たちのひと世代、上の日本人の英知と努力の結果なのですが、それから1年毎に、日本は着実にましになって行ったのです。


 昭和30年になると、お金さえ払えば何でも食べられるようになりました。




 橋本龍太郎君が、あれは究極の美しさで、自動車はもうこれ以上決して美しくはならないと言ったのに、49年式のフォードはすぐ古ぼけて見えるようになったのです。


 それから10年も経たないうちに、アメリカ車にはフォードもシボレーも、それにプリマスも、テールフィンが付いて、驚くほど立派で素敵になりました。


 人間の凄さと素晴らしさは、自動車の性能と外観デザインの進歩を見ると、本当によく分かります。


 僕たちもクルマと一緒で、いつまでも中学1年生ではありません。


 昭和31年に水野忠夫君は早稲田大学、橋本龍太郎君は慶応義塾大学に進みました。


 そして、なんとしたことか僕だけが、まともな道から暗黒街に入り込んでしまい、長い年月を過ごしてしまったのです。


 それでも僕はやっとのことで、昭和56年には足を洗って、なんとか長く過した暗黒街から脱出しました。




 さて、何をして暮らしを立てようかと思った僕は、とりあえずロサンジェルスに行って、これからどうするかを考えたのです。


 旧友のタック山田が、サンタモニカの家に僕を泊めてくれました。


 その家の巨きなガレージには、亭主のタック、女房のジェニー、それにお祖母様のケイコ山田のクルマと、3台もアメリカ車がいれてあって、僕は懐かしの49年式フォードに再会したのです。


 塗装こそいくらか全体に艶を喪っていましたが、みたところとてもいい状態で、モールも光っていたし窓枠にも錆なんか出ていませんでした。


「おーッ。49年式だね」


僕が叫んだらタックは苦笑して、


「ミーがまだ小学校に行っていた頃に買って、30年も……。いくら運転が楽だから、オートマチックの新しいのに替えろと言っても、グランマは、これがいいと言って聞かないのさ」


 と言ったのです。




 しかし、よく手が入れてあると、僕が感心したら、タックは首をちょっとすくめて、


「日本のお年寄りが、あの小さな松……。なんと言ったかな。そう、盆栽をやるみたいに、うちのグランマは暇があると、このフォードをいじっているのよ」


 孫に手伝わせて、少しへたりがきたショックアブソーバーも、部品を買ってきて取り替えたりしないで、自分で直してしまうのだと言いました。


 僕の来る2ヵ月前には、減ったタイヤを新品と取替えたのだが、4輪ともに全部交換して、古いのをジャンクヤードに捨てに行くのは大仕事だったと、頭を左右に振りながら言ったのです。




 タックのお母様のケイコは、昭和56年のその時で76歳でした。


「グランマはこの大事になさっているクラシックカーを、僕に運転させて下さるかな」


 僕が呟いたら、


「ノー・プロブレム。ミーも時々、運転しているよ」


 タックはニコリとして、言ってくれたのです。




 家に入っていったタックが、キーを持ってガレージに戻って来ると、後ろからついて出てきたケイコお婆様は、


「ナオ、ハーフクラッチを、あまりエット使ってはいけんよ。パーツが、ハァ、なかなか手に入らんのじゃけぇ……」


 広島弁でおっしゃいました。


 エットというのは、沢山という意味です。


 亡くなったお祖父様が自動車の修理工だったので、お祖母様もこの年式のクルマまでは、自分で何でもやってしまうというのですから、お歳にしては驚くべきことでした。


 サンタモニカ・フリーウェイを、60マイルでクルージングした49年式のフォードは、見事なもので、ガタともピシともいいません。


 流れるようにスムーズに走ったのです。




 日本に戻った僕は、大幸運に恵まれて小説家になりました。


 今年でフォード49年式に痺れた時から、実に半世紀に近い48年の歳月が過ぎました。


 現代ロシア文学を究めた水野忠夫君は、早稲田大学文学部の文学部長の要職にあって、先日、新聞社の学芸部の記者が僕に語ったところでは、総長への道をまっしぐら……なのだそうです。


 橋本龍太郎は26歳で国会議員になって、今では総理大臣をしています。


 ケイコ山田は昭和63年の暮に天寿をまっとうされたそうですが、タックは遺品のフォードを、まだ大事にしています。


 先日、日本に来たタックは、ハリウッドが撮影に借りに着て、なんと100ドルもくれたと笑って言いました。




 大事に手入れさえしてあげれば、アメリカのクルマはいつまでも機嫌よく走ってくれるのですが、これは人間も同じことなのに違いありません。


来月は人間ドックに行こうと、僕は思ったのです。


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情報提供元: MotorFan
記事名:「 安部譲二の華麗な自動車遍歴コラム フォード・セダン’49