成長から成熟へと季節移行する大事な時期を迎えています。

東洋の古い思想には、自然と同様、人生もステージ移行をしつつ円環し、循環していく、という考えがありました。その価値観は、近現代の「成長」自体を目的化した物質文明社会とは大きく異なります。過剰な物質文明によって病みつつあったヨーロッパに、人生の「意味」を問いかけ、成熟に通じる見失われた「自己(セルフ)」との邂逅を唱えた人、それは精神医学・心理学の巨人・C.G.ユング(Carl Gustav Jung)です。

※画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tour_bollingen_CGJung.jpg

「ボーリンゲンの塔」。50歳を過ぎ深刻な精神的危機に直面したユング自身が石を積み建てました


ゲーテの孫?分析心理学の創始者ユング、スイスに生まれる

C.G.ユングは、1875年7月26日、スイスのボーデン湖畔ケスヴィルで、牧師で教師のヨハン・パウル・アキレス・ユングの三男として(ただし兄二人は幼くして夭折しているため実質的には長男として)生を受けました。
父からはラテン語の素養を、エキセントリックな母・エミリーからは高いコミュニケーション能力と空想癖を受け継ぎました。幼児の頃から精神的な不安定さがありましたが、12歳、バーゼルのギムナジウム(中央ヨーロッパの大学受験以前の中高一貫教育校)在学中、バーゼルの大聖堂の上空に坐した神が、聖堂に排泄物を落とし、さらに聖堂を粉みじんに踏み砕く、という幻視を体験し、深刻な精神的危機に直面します。
ユングの形而上学的/信仰的な疑問や悩みについて、牧師である父に問うても、紋切り型の返答しか返ってこなかった、と後にユングは述懐しており、父・ヨハンは息子にとっては病んで弱ったヨーロッパの精神そのもののように感じましたが、かと言って、そんな父を軽蔑も憎悪もなく、労りと慈愛の気持ちを生涯抱いていたようです。
ユングは、ゲーテの私生児との噂のあった祖父と同じバーゼル大学に入学、そこで精神医学という新しい分野に初めて触れることになりました。

肉体の病理学や医療学は古代から続いてきたのに対して、精神・人格の病理や治療を扱う精神医学は、きわめて歴史が浅いものです。なぜなら、精神の病を扱うのは長らく呪術や教会などの宗教者に任されていたからです。
一般に精神医学は1808年にドイツの医師・ライルが著書『精神的治療法の促進に対する寄与』で使用した"Psychiatrie”と言われますが、これは現在で言う医療現場での看護やケアの大切さを説いたもので、精神の病の治療の意味ではありません。
当時、一旦心の病とされてしまうと、不知の病、あるいは悪魔憑きとして一生鉄格子の中に閉じ込められるということが、『精神疾患に関する医学‐哲学的論考』(1801年)を著したP.ピネルの試みなどの一部の例を除いて長く続いていたのでした。

精神医学は19世紀半ばになってようやく医学部のカリキュラムの中に組み入れられ、次第に治療への研究が進んでいきます。ドイツのエミール・クレペリン、スイスのオイゲン・ブロイラー (Eugen Bleuler 1857~1939年)らにより、精神の病の特徴の分類や定義が行われて整理され、ようやく治療への本格的な試みが始まったのです。

※画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hall_Freud_Jung_in_front_of_Clark_1909.jpg

Hall_Freud_Jung 「無意識」研究の先達・フロイト(前列左)と若きユング(前列右)


フロイトとの邂逅、そして別れ

1900年、ユングはチューリヒ大学付属のブルクヘルツリ病院の精神科で、ブロイラーの医療助手として勤め始めます。ブロイラーの指導下で霊媒(降霊術)を科学的に考察した学位論文を書き上げ、さらに1903年ごろから、後にユング心理学カウンセリングの重要な特徴となる連想実験を開始します。これは、単語の連想から無意識に潜むコンプレックス(固着したこだわり)を引き出す試みでした。
それに先立ち、ブロイラーはユングにジークムント・フロイト (Sigmund Freud 1856~1939年) が1899年に著した『夢判断』についての学会の読会用のレジュメをまとめるように指示しています。『夢判断』は明瞭な理性こそが人間が神の分与であることの証明であるとするヨーロッパ人の価値観にとっては単なる幻覚・せん妄に過ぎないとされてきた夢、その夢を司る「無意識」領域の存在とその力学を初めて活写した画期的な著作でした。
しかし、フロイトがユダヤ系であることも手伝って、当時の医学界では異端視され、白眼視されていたのです。ユングは、自身が連想実験を手掛けるようになり、フロイトの研究の重要性と、自身の連想実験での「無意識」の掘り起こしとの共通性と先行性に気づき葛藤します。精神医学会から鼻つまみ扱いされているフロイトの理論に後発の自分の理論が共通するという事実を隠したまま発表しなければ、自分も学会から無視されるのではないかと悩んだのです。しかし、ユングが「ナンバー2」と呼んでいた彼の第二人格(シャドー)からの「お前はそのようなペテンを行うことに耐えられないだろう」という忠告に従い、自身が「フロイト派」であることを明瞭に打ち出し、誤解と無理解に晒されているフロイトを積極的に擁護し、1906年にはフロイトを援用した『早発性痴呆の心理』を発表、また活発な文通を行うようになりました。

フロイトとの直接対面は1907年、オーストリアのウイーンに在住するフロイトを訪ねるかたちで実現します。初めての両者の対話は13時間にも及びました。ユダヤ系のフロイトは、スイス人の若きユングを自身の後継者と目するほどに高く評価し、その心酔と信頼が度を越したものだったため、ユングは周囲の弟子たち(のちに個人心理学を立ち上げ、劣等感コンプレックスの理論の生みの親となるアドラーなど)のやっかみと反感を受けることになります。

※画像:[[File:Mandala (14696085411).jpg|thumb|Mandala (14696085411)]]By Christopher Michel - Mandala, CC BY 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37116429

対極にある要素との相補・相克関係で人は完成された人格を目指すとするユング心理学のシンボル・曼荼羅

けれども、ユングとフロイトにはさまざまな、そして決定的な相違がありました。フロイトの「無意識」とは「抑圧された性衝動」のことであり、ユングの考えてきた「無意識」とは根本的に異なっていたのです。

「性欲は彼(フロイト)にとって一種のヌミノース(神聖なもの。信仰の対象)であると私は直感した。今でも私は、フロイトが『親愛なるユング、どうか決して性理論を捨てないと約束してください、その教義は砦なのです』と語ったときの有様をありありと思い出すことができる。いささか驚いて私は彼に聞き返した。『砦って何に対しての?』それに対して彼は答えた。『世間のつまらぬ風潮に対して…』ここで彼は少しためらい、そして付け加えた。『神秘主義に対してです』」

ユングによるこの回想は、フロイトのユングにすがる気持ちとともに、フロイトがユングの本質を「神秘主義」と喝破しており、「そっちに行かないでくれ」というせつない思いもまた顕著です。
しかしユングはフロイトと袂を分かち、その後「分析心理学」の体系化に全力を注ぎます。無神論者であったフロイト、後にアメリカにわたり、個人の生物としての劣等性を克服することで精神的な変調から立ち直れるとした「力の心理学」を提唱した合理主義のアドラーと違い、「私は神がいるということを知っている」という言葉を生涯のモットーとしたユングは、「人」とは性別、民族人種を超えてその人生の過程において統合された高いステージの人格形成を目指すものと捉えたのです。

集合無意識などの概念を創出したユングの心理療法のひとつ「箱庭療法」


統合と「アップデート」のユング心理学。今こそ紐解くときかもしれません

解き放たれたユングは、肉体的に男性として生まれた者の心の成長に寄り添う対極の異性の伴侶としてのアニマ、女性として生まれた者の心の成長に寄り添う対極の異性としてのアニムス、同性の対極者として出現するシャドー、これらを攪乱するトリックスターなどが登場する「元型(アーキタイプ)」理論、フロイトとの訣別から着想したタイプ別性格論(内向外向論)、人の心と世界とが相互に作用しあうという量子力学とも通じる共時性(シンクロニシティ)理論などの斬新な精神文化論を発展させてゆくことになります。
フロイト、アドラーという心理療法の二人の大家が、人間を動物として捉える唯物論(フロイトは人間を生殖の欲望で生きている種としての動物、アドラーは弱肉強食の過酷な自然界の中で適応して生き残ろうとする個体としての動物)なのに対し、ユングは人は個としての人格の完成を目指しているという精神論を唱えました。そして、精神病(特にユングがキャリアの初めから取り組んできた統合失調症)とは、人がより高い統合的な人格、平和な境地に至るために経なければならない過酷なイニシエーション(通過儀礼)と捉えました。そして、精神科医とは、精神病者がその危険に満ちた旅を辿るための導き手でなければならないと考えたのです。

ユングの理論には、東洋の太極思想に通底する考えが見られます。ユングが精神的な危機に陥った時に、円型の構図の中に規則的な文様パターンが形成される図像を作画することで救われた、というエピソードがあります。これが後に東洋の密教で描かれる曼荼羅(マンダラ)と瓜二つだったという体験から、ユングは東洋、そしてアフリカなどの、人類の基層的な文化がより残存している世界に目を向け、民俗学者ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade 1907~1986年) らとの親交を結んで、人類の精神世界が世界(宇宙)との相互的な関与の中で漸進しているものだという確信を得るのです。
太極とは、黒と白の勾玉状の陰陽が合体して円となった図像として表現されますが、これは、温と寒、生と死、男と女、乾と湿、老と幼などさまざまな対称性が互いに相互作用を及ぼしつつ世界を循環させる円環として成立しているさまを表していますが、これは正と邪、善と悪といった価値観でも同様なのです。ユングは、人間が目指すべき全人(アートマン)とは、価値観における正と邪も善と悪も超克し、それらを包含した存在であるとします。そしてそれを本当の自分との出会い「セルフ(自己)」としました。人間社会における正義や悪徳といった価値観が通用しない境地を人間は目指しており、だからこそこの世は混沌としたるつぼであり、人間たちはそこでより高次の「智恵」を獲得しなければならない、というのです。

成長(生・性)と衰滅(死・此)のはざまにある「成熟」の季節。何者かを絶対悪、絶対善とする思想から人類がどう脱却し、成熟できるのか、ユングの著作にヒントがあるかもしれません。

※画像:[[File:Jung-Institut.JPG|thumb|Jung-Institut]]


参考
ユング自伝 C.G.ユング 河合隼雄 他訳 みすず書房
人間のタイプ C.G.ユング 高橋義孝訳 日本教文社
夢-時空を超える旅路 D.コクスヘッド S.ヒラー 河合隼雄 氏原寛訳 平凡社

ユング研究所。かつてヘルマン・ヘッセもユング療法を受け、「荒野の狼」を書き上げました

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 成長から成熟へ移行する季節。成熟の心理学を唱えたユングに思いをはせて