スーパーゴールデンウィークも折り返しですが、みなさん楽しんでいますか? お出かけするとそれだけ支出も増えますが、樋口一葉が顔になった五千円札が2004(平成16)年に登場して15年が経ちますが、じっくり五千円札を眺めたことはありますか?

実は、樋口一葉の24年の人生は華々しいものではありませんでした。

本名は樋口奈津。ペンネームの由来は、インドの達磨(だるま)大師が一枚の葉に乗って中国に渡ったという伝説について、一葉が「私にもお足(銭)がない」と冗談めかして友人に語ったことだとか。

今日は樋口一葉の誕生日。運命に翻弄(ほんろう)されるような、苦労続きの人生でした。苦労の末に花ひらいた途端、若くして散ってしまった一葉の人生をたどってみましょう。

美人薄命……?


17歳で家督を継ぐことに

樋口一葉(本名:樋口奈津)は1872(明治5)年、東京に生まれました。

父親は政府の役人をしながら事業もおこない、一葉の幼少期まで樋口家は経済的に安定していたようです。

一葉は小学校の成績で首席になるなど優秀な子どもでしたが、母親が、女は学問よりも針仕事や家事を身につけるべき、と主張したことから進級できず、退学させられてしまいます。

この出来事について一葉は、「悲しくつらいことだった」と日記に残しています。

一葉の才能を惜しんだ父は、一葉を知人の紹介で歌人・中島歌子が主宰する「萩の舎(はぎのや)」に入門させ、一葉は熱心に和歌の創作へと打ち込みます。

ところが、父親が事業の失敗による膨大な負債を残したまま、1889(明治22)年に病死。兄も亡くなっていたため、一葉は若くして家督を相続することに。母・一葉・妹と女3人となった樋口家の生活は、困窮を極めていきます。

このとき、一葉はまだ17歳でした。


小説を書けば、お金になる

そして追い打ちをかけるように、樋口家に更なる不幸が舞い込みます。

お互いの祖父が親しかったことから一葉の許嫁(いいなずけ)となった相手先から、婚約を破棄されてしまいました。

樋口家から援助を受けることを前提に婚約を結んでいた相手は、樋口家が負債を抱えるや否や婚約破棄を選んだのでした。この出来事は一葉に癒えない傷を残しました。

樋口家は当時、母と妹と一葉の3人が針仕事や洗い張りでなんとか生活費を稼いでいました。

いっこうに火の車から抜け出せない家計に悩んでいた一葉は、ある日、同じ「萩の舎」に通う田辺花圃(かほ)が小説を書いて多額の原稿料を得たことを知り、「小説を書けばお金になる」と小説家を目指すようになります。

やがて妹の友人のつてで、東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社版)で新聞小説を書く、半井桃水(なからいとうすい)を紹介してもらえることになります。

先に作家デビューした田辺花圃が坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)を師匠にもったように、自分も師匠のもとで小説を学びたいと願っていた一葉にとって、それは願ってもない出会いでした。

お金のため!


小説の師匠にひと目惚れ?

「私は先生と呼ばれるほどの才能はないけれど、お話の相手にはいつでもなりましょう。遠慮なくいらっしゃい」

訪ねてきた一葉に半井桃水はこんな言葉をかけ、一葉はその場で涙をこぼしたといいます。

兄と父の死によって17歳で家督を継ぐことになった一葉。多額の借財、困窮……許嫁には裏切られ、頼れるもののない一葉にとって、この桃水の言葉は、優しくしみわたったにちがいありません。

一葉は、初めて会った桃水のことをこのように日記に書いています。

「顔色は大変よろしく、おだやかで、少し微笑まれたお顔は、ほんとに三歳の幼児もなつくように思われました。」(明治24年4月15日『樋口一葉日記』)

一葉は桃水が主宰する雑誌「武蔵野」に処女作「闇桜」を発表するものの、周囲から「2人が男女の関係になっている」と噂されるようになり、自ら桃水の家に出向き「絶交」を告げることとなります。

当時はお互いが独身であっても、結婚を前提としない男女交際が認められない風潮でした。

よくない噂を聞いた萩の舎の仲間から、一葉は別れるよう忠告を受けるのでした。

失恋……ハートブレイクですね


奇跡の14カ月

この頃より少しずつ小説を発表し原稿料を得られるようになる一葉ですが、求められたのは売れるための大衆小説。

自分の書きたいものとは違うことに思い悩んだ一葉の筆は、徐々に重くなっていきます。

「昨日から家にはお金というものは一銭もない。」(明治26年3月15日『樋口一葉日記』)

こんな状況を少しでも改善すべく、樋口家は現在の台東区に駄菓子や日用雑貨を取り扱う雑貨店を開きます。

近くには遊郭があり、一葉は吉原の生活を知っていきます。この経験が、後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材になったといわれています。

商売は失敗に終わり、店を引き払って住まいを移してからの一葉は、1894(明治27)年に「大つごもり」、翌年には「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」……傑作を続々と発表。それは文学史において「奇跡の14カ月」と呼ばれています。

もう少し、長生きできたら……

樋口家は文筆家などが集まる文学サロンのようになり、一葉は着るものにも困る生活でしたが、来客を歓迎し、うなぎや寿司を取り寄せてふるまったということです。

幸田露伴、森鷗外からも高い評価を受けた一葉でしたが、当時治療法がなかった肺結核が進行しており、1896(明治29)年に亡くなります。24歳と6カ月という若さでした。

一葉の死後、100年以上経ちます。亡くなる間際の1年2カ月の間に日本の近代文学史に残る作品を残し、それが今も色あせることなく読み継がれ、映画や舞台にもなっているというのは、本当に奇跡ですね。

2024年から五千円札の顔は津田梅子になるようですが、一葉の人生を踏まえたうえで、あらためて作品を味わいたいですね。

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 「樋口一葉」のペンネームは、貧乏が由来だった!?