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日本には古くから、人魚の目撃・捕獲情報のみならず「人魚を食した」という人の記録が各地に残っているといいます。なかでも有名なのは、人魚の肉を食べて800年も生きたという「八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくに)」という女性の伝説…地域によって多少の違いはあるものの、だいたいこんな内容です。
「ある宴会に招かれた客の一人が、調理場の様子をそっと覗いてみた。すると、なんとそこでは、人の形をした頭と腕がついた魚が、切り刻まれているところだった。驚いて他の客にも話し、食べずに持ち帰って捨てようということになった。しかし、ひとりの客が捨てるのを忘れた肉を、そこにいた娘が深く考えもせず食べてしまう。人魚の肉を食べた娘は800年も生き続け、やがて『八百比丘尼』とか『白比丘尼』と呼ばれるようになった。いつまでも美しい尼は、困っている人々をたすけたり、椿などの植物を植えたりしながら、全国を旅したという。」
永遠の若さと美しさ(美白)は現代女性の憧れではありますが…自分だけ800年も生きるなんて。愛する家族や友人がみんな先に逝ってしまう孤独は、耐えがたいものだったでしょう。人の寿命はほどほどが幸せですよ…と伝えるために、八百比丘尼さんは旅をしたのでしょうか。いろいろ植えた植物は、「生まれては朽ちる命の美しさ」の証しだったのかもしれませんね。
八百比丘尼さんの足跡は、北海道をのぞく日本各地で確認できるといいます。人生8回ぶんくらいの時間と若さがあったから「全国ツアー」が可能だったのか? それとも複数の「八百比丘尼」さんが存在したのか? 「800歳なのに見た目は10代」の「元祖・美魔女」(しかも優しい)の来訪は、癒し&励まし効果バツグンだったことでしょう。いまも、福井県の若狭地方など伝説が伝わる地は、若さと美貌を保った八百比丘尼さんにあやかりたい女性の人気スポットになっています。
それにしても、まな板の上にあの人魚(マーメイド)がのっていたら…人として、はたして調理できるものだろうか? と思ってしまい、調べてみると…、昔の人魚の姿は、今よりずっと「魚寄り」だったらしいのです。
鎌倉時代の『古今著聞集(巻第20「魚虫禽獣」)』には、漁民がもってきた「人魚」と思われる大魚を、平忠盛が受け取り拒否した話が残っています。その姿は「頭はまるで人間のよう。歯は細かく生え揃った魚そのもの、口は不自然に出ていて猿に似ている。漁民が近づくと、わめき叫んで、その声はほとんど人間のようであり、さらに涙を流す様子も人間と変わらなかった」。忠盛は気味悪がってただちに返してしまいましたが、漁民たちはすべて切って食べてしまいます。「誰にも別条はなく、その味はたいへん美味であった」。中国の文献に伝わる人魚もこれに近い姿で、食べるととても美味なうえ不老長寿の効果がある、と記されています。とはいうものの、人間みたいな頭の生きものを調理して食べるって…「食(珍味)」や「不老不死」を求める人間の欲望おそるべし! ですね。
現在の「人寄り」な人魚のイメージは、日本では大正時代頃に定着したもの。美しく可憐な少女の姿は、小川未明の『赤いろうそくと人魚』やアンデルセンの『人魚姫』など、童話の挿絵でもおなじみですね。有名なコペンハーゲンの『人魚姫の像』は、なぜか足首までほぼ人!? 一説には、モデルの女性の脚があまりにきれいで、魚にするのがしのびなかったのだとか。
古い伝説から現代の小説まで、人魚にまつわる数々の物語では、人間はいつも「食欲・性欲・金銭欲」などの欲望に負け、いろんな「罪」とつながってしまいます。だからたいてい、ハッピーエンドになりません。じつは人魚は、昔から天変地異などを招く「不吉なもの」ともされてきたのです。人間は、魚の「わからなさ」に強く惹かれ、またそれが怖くなるのかもしれません。心が近づくときは「人の部分」を、心離れるときは「魚の部分」を見ているのでは…などと思えてしまいます。
その昔、人魚は実在すると信じられていました。日本では江戸時代後期も「人魚=海に棲息する生きものの一種」と理解され、骨の薬効なども論じられていたそうです。欧米の生物学の書籍を見てはじめて「人魚載ってないよ!?」とびっくりする学者も。
ヨーロッパで大人気だったという「人魚のミイラ」。じつはそのほとんどが、日本から輸出されたものでした。上半身に猿、下半身に鮭などの魚を縫い合わせたもので、製作方法は門外不出の秘伝だったともいわれています。きっと、日本人が「見た」人魚をリアル再現した姿だったのですね。
では、海にいた「人魚」とは、何だったのでしょう?
太平洋側・日本海側問わず、あらゆる場所で目撃されているため、あるひとつの動物を指していたのではなく、いろんな生きものだったのではと考えられています。オオサンショウウオや、ジュゴン、スナメリ、アシカといった哺乳類なども。なかでも「白肌で、赤い髪をなびかせて泳ぐ」と記録されるほっそり系の人魚は、リュウグウノツカイとする説が有力だそうです。
「逢ってみたい」という人間の気持ちが、いろんな海の動物を人魚に見せるのでしょうか? 詩人・中原中也が「海にいるのは、あれは人魚ではないのです」(『北の海』)とうたったのも、あそこに人魚がいたらどんなに心癒されるだろう…という願望を表しているのかもしれませんね。ヒトがもう戻ることのできないふるさと、海。そこに住む、自分と似た形の、澄んだ心をもつ生きもの。だからこそ人間は、人魚に憧れを抱いてしまうのかもしれません。
<参考文献>
『日本の「人魚」像』九頭見和夫(和泉書院)
『人魚の動物民俗誌』吉岡郁夫(新書館)
『知れば恐ろしい日本人の風習』千葉公慈(河出書房新社)