初夏の季節に、ふと思い出される句があります。〈分け入っても分け入っても青い山〉。

これは種田山頭火(たねだ・さんとうか/1882~1940年)が大正15(1926)年4月、句作の旅に出た際に詠んだ句とされています。「青い山」の一語からは青葉がまぶしい夏の山が連想され、清々しさを感じます。

今回は「漂泊の詩人」として今なお多くの人に愛される、彼の世界を紹介しましょう。


西行、良寛……漂泊の詩人たち

日本人は「漂泊の詩人」というイメージを好みます。

西行、良寛、山頭火……。その中でも山頭火は、特に人気があるようです。

〈へうへうとして水を味ふ〉

〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉

〈ころり寝ころべば青空〉

それにしてもこれは俳句なのでしょうか。五七五の音律の約束もないし、季語もありません。

実はこれ、「自由律俳句」と呼ばれる詩形で、型にはまることをきらい、技巧を排して眼前にある風景や感慨をそのまま詠おうとするものです。

大正時代には山頭火、荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい/1884~1976年)、尾崎放哉(おざき・ほうさい/1885~1926年)など、有名な俳人も出ています。現在でももっぱら自由律で俳句を詠む人も多いようです。山頭火自身は、自分の俳句を詠む態度として「ぐつと掴んではつと投げる」と書いています。

山頭火の墓(山口県防府市)


托鉢と旅と俳句と酒

山頭火は山口県佐波村の生まれ。早稲田大学まで進みますが、中退して故郷の酒造業に従事します。

大正2(1913)年、荻原井泉水に学んで俳句を作るようになります。しかし事業の経営に失敗してしまい、熊本や東京などに移り住みますが、結婚生活もうまくいかずその後出家、大正14(1925)年にはあてのない放浪の旅に出ます。

その後は九州、四国、中国地方などを放浪しながら俳句を作りつづけます。孤独を求めて旅に出たのに、孤独に耐えられず、托鉢でもらった金で酒を呑む毎日です。

〈ふるさとの水だ腹いつぱい〉

〈もりもり盛りあがる雲へあゆむ〉

〈どうすることもできない矛盾を風が吹く〉

〈つきあたつて大きな樹〉

〈草の中に寝てゐたのか波の音〉

托鉢(たくはつ、サンスクリット:pindapata)

疲れると、もとの妻のところに転がり込むこともありましたが、昭和7(1932)年には山口県小郡町に草庵を結び6年間を過ごします。

最後の地は、愛媛県松山。脳溢血で亡くなります。享年59。

社会も家族も捨てた、その人生は傍目には勝手気ままにも見えますが、彼にとっては作句と旅とは一種の修行であったようです。

一方、山頭火の師である荻原井泉水はこんな句を作っています。

〈月が明るくて帰る〉

〈かごからほたるを一つ一つ星にする〉

やはり井泉水門下の尾崎放哉もやはり放浪の詩人でした。

〈足の裏洗へば白くなる〉

〈咳をしてもひとり〉

〈春の山のうしろから煙が出だした〉

放浪へのあこがれ、自然の中での自由な暮らし、そして孤独のなかの独白のようなつぶやき ── 山頭火らの俳句と生きざまはなぜ日本人の心をとらえるのでしょうか。

放哉が最後を過ごした小豆島の放哉記念館

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 種田山頭火、尾崎放哉 ── 自由律俳句の魅力