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憲法記念日は、1947年5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して、その翌年に祝日法に基づいて制定されました。
GHQ(連合国軍総司令部)によって着手されてから、わずか8日間で原案が当時の政府に提示されたともいわれる日本国憲法。この一方的な展開に、真っ向から異議を唱えた人物がいました。「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに評された白洲次郎です。
白洲次郎(しらす じろう、1902年2月17日~1985年11月28日)は、兵庫県芦屋市出身の実業家。幼い頃から豪放な性格でならし、ケンブリッジ大学留学時には、父親からの莫大な送金をスポーツカーに費やし、学友の伯爵家の御曹司とカーレースに出場。一流の背広の着こなしやキングス・イングリッシュを身につけ、17歳からのケンブリッジでの9年間で、白洲ならではの英国式ダンディズムを体得するに至ります。いわば、ダンディーな日本人の代名詞といえる、なんとも興味深い人物なのです。
その白洲が、世界を股にかけて仕事をしていた時に面識を得たのが、駐英国特命全権大使としてイギリスにいた吉田茂でした。白洲は後に首相となる吉田と意気投合し、日本国憲法制定前夜のGHQとの交渉に身を投じていくことになるのです。
戦後、白洲は外相となった吉田茂に請われ片腕として、マッカーサーとの交渉からサンフランシスコ講和条約の締結まで、日本の外交を一身に担うことになります。
憲法に関する交渉は非常に厳しいものとなり、GHQによる「マッカーサー草案」がほぼそのままのかたちで、「憲法草案要綱」として公表されることになります。白洲はその時の無念の思いを、「『今に見てゐろ』と云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス」と手記に書いています。
この涙の意味は、白洲次郎が大切にしていた有名な言葉「プリンシプル」に隠されているようです。プリンシプルとは、「原則、主義、信条」といった意味があります。GHQとの交渉のなかで、日本のプリンシプルというものを対等に持てなかったという思いがあったのでしょう。
サンフランシスコ講和条約の締結後、政治の表舞台から身をひいた白洲は、東京郊外・鶴川で田舎暮らしに戻ります。「武相荘(ぶあいそう)」と名付けられた白洲邸は、農家を買い取って住居としたもの。地方に住みながら、中央の政治にも目を光らせる、「カントリー・ジェントルマン」として余生を過ごしました。妻の白洲正子との旅を楽しみ、80歳になるまでポルシェ911を乗り回した白洲次郎。遺書にはたった二行「葬式無用、戒名不用」とありました。
憲法制定の過程には異議を唱えた白洲ですが、意外にも内容は良いと語っていたそうです。特に9条を評価していたといわれています。現在、改憲にゆれる日本国憲法。施行から70年を経た今、白洲次郎が思いを込めた日本のプリンシプルとは何か、あらためて考える時なのかもしれません。
参考文献
白洲次郎「プリンシプルのない日本 」新潮文庫 2006
参考サイト
武相荘ホームページ