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これまで何度か解説してきたとおり、七十二候は、中国の宣明暦バージョン、江戸時代前期の貞享年間に編纂された貞享暦バージョン、その後宝暦、寛政の改暦で再び大幅に手が加えられ、明治政府が略本暦として引き継いだ宝暦暦バージョン、という大まかに言って三つの大きく異なるバージョンがあります。
立春次候は宣明暦では「蟄虫始振(ちっちゅうはじめてふるう)」、それを改訂した貞享暦では、編纂した渋川春海は「梅花乃芳(うめのはなかんばし)」としました。実際、日本の標準的な気候からこの時期にふさわしいのは梅の花が咲き出して香り立つ、というほうがふさわしく、かたやウグイスを持ち出すのは少し早すぎる感があります。にもかかわらずなぜか宝暦暦では「黄鳥睍睆」としました。
え?黄鶯ではなく黄鳥?そうです、本来は「黄鳥」と記され、後に読みとともにわかりやすく「鶯」に書き換えられました。
黄鳥について、「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(春木煥光・1821年/文政4年)では、「黄鳥ハ鶯ナリ 今ノ俗 朝鮮ウクイス 又カラウクイスト云フ 此鳥東国ニハ来ラス」と記し、日本在来のウグイス(Horornis diphone)と、朝鮮半島や中国などの東アジア大陸に生息する別種のコウライウグイス(高麗鶯 Oriolus chinensis)、どちらも指すものとしています。しかし、日本のウグイスとコウライウグイスは科も異なるまったく別の鳥。もしこの名が両方の意味があるならば、黄鳥とせず、シンプルに「鶯睍睆」とするほうが誤解がなく明解だったはずです。
さらに、江戸時代に「黄鳥」という場合、日本のウグイスよりもコウライウグイスの意味の方がより強いものでした。幕末期、「平安四名家」と称えられた円山四条派の絵師の一人、中島来章(なかじまらいしょう)による「福禄寿花黄鳥図(ふくろくじゅかおうちょうず)」に描かれた「黄鳥」を見ても、描かれているのはコウライウグイスであることからも明らかです。江戸期の知識人の間ではこの外国産の鳥の名と姿はよく知られたものであり、「黄鳥」というときにまず同定されるのは、コウライウグイスのほうだったのです。
つまり、あえて外国の鳥と誤解されかねない名を本朝七十二候に組み入れたことになります。
貞享暦の「梅花乃芳」をわざわざ黄鳥睍睆」に変更したのは宝暦暦編纂責任者の陰陽頭(おんみょうのかみ)・土御門泰邦(つちみかどやすくに)。泰邦は、どんな意図があって、「鶯」ではなく「黄鳥」としたのでしょうか。
実は中国の宣明暦七十二候にもコウライウグイスは登場しています。啓蟄の次候(三月中旬ごろ)の「倉庚鳴(そうこうなく)」の「倉庚」とは、コウライウグイスの一種のこと。三月のこの時期のほうが、日本のウグイスの声が聞かれる時期としても、適切ですよね。ただウグイスの項目を入れたかっただけならば、啓蟄次候を宣明暦に倣い、ウグイスの候にすればよかったはず。ところが土御門泰邦は、この倉庚をわざわざ別名の黄鳥に変えた上で、また時期としても決して適切ではない立春次候に強引にもってきたのです。
これは、一見「うぐいすが美しい声で鳴き始めた」という体裁をとりながら、「わかる人にはわかる」かたちで、まったく別の意味をこめていたとしか思われません。
黄鳥=コウライウグイスは、その名の通り全身が鮮やかな黄色で、目元や尾羽根、風切羽根等に黒や藍のポイントが入る派手な鳥。大きさも日本のウグイスより大きくなります。調べは、ウグイスとホトトギスの中間、ホーホケキョとテッペンカケタカのどちらにも聞こえ、声質はカッコーに似ていて、とてもよく響きます。
黄鳥は、古来中国の詩によく詠まれます。そして、王や皇帝の象徴として詠まれることが多い鳥なのです。
なぜなら、中国では最初の皇帝が「黄帝」であること、秦の時代以降、確立された陰陽五行説では、水・火・木・金・土の五つのエレメントはそれぞれ黒・赤・青・白・黄の五色に対応し、土=大地を司る黄は、中原こそ世界の中心で、東西南北は野蛮な民族の住む僻地であるとする中華思想を体現した色であり、また黄金に通じることから帝王、支配者の色とされたからです。
「詩経」秦風に「黄鳥」の詩があります。
交交黄鳥 止于棘
誰従穆公 子車奄息
(交交たる黄鳥が棘だらけの木に止まる 穆公に従ったのは誰か 子車奄息なり)
で始まるこの詩では、名君であった秦の穆公(ぼっこう)に殉じた忠君たちの死を悼み、黄鳥が墓所で鳴いているさまを描いていて、さしずめ穆公の魂の象徴として黄鳥が描かれているようです。
大著「礼記」を簡潔にまとめた儒学者の修養書「大学」には、次のような記載があります。
詩云、邦畿千里、惟民所止。詩云、緡蛮黄鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止。可以人而不如鳥乎。
(詩経に曰く、天子の都のある邦畿千里(ほうきせんり)こそ、人民がとどまり住まうにふさわしい場所である。
また詩経に曰く、ゆったりと美しく(緡蛮=めんばん=と)囀る黄鳥は、己にふさわしい丘の片隅に止まる。
孔子先生は説く。鳥ですらおのが止まるべき所を知っている。人たるもの、鳥に劣ることがあってよいものか、と。)
黄鳥になぞらえ、天子の住まう場所こそが人々が寄り集う「都」であるべきだ、ということですね。
江戸時代の文化人にとり、四書五経に通じ、主な漢文古典をそらんじるのは当然の教養でした。「黄鳥」が象徴する意味を知らなかったはずがありません。そして、公家であり都人である土御門泰邦にとっては、いわば世界(日本)の中心地は帝の住まう平安京。「あずまえびす」の群がる江戸など、かりそめの繁栄でしかない。いずれ人々は、集うべき場所・者のもとに集うのだ。天子様のおわす京の都に。睍睆たる帝の威光を、黄鳥も歌っている。泰邦が秘めた本意はこういうことだったのではないでしょうか。つまり、極端なことを言えば、江戸幕府よ滅びてしまえ。京の王朝の栄光再び来たりませ。これが「黄鳥睍睆」にこめられた呪願だったことは、まちがいなかろうと思います。
都を京に取り戻す。そしてもう一つ。暦編纂の権限を土御門家(土=黄であることは先述しました)に取り戻す。律令時代以来陰陽寮において天文現象の監視と報告、暦の製作、報時、卜占(ぼくせん)などの業務を行っていたのがまさに陰陽師であり、その伝統と権限を奪い取ったのが、渋川春海ら幕府天文方による和暦「貞享暦」の編纂だったのです。宝暦の改暦は、ふたたびそれを陰陽寮方に取り戻す千載一遇のチャンスであり、陰陽頭の泰邦にとっての宿願だったはずだからです。
土御門泰邦は、かの安倍清明の子孫。その傲慢な性格は、せっかく幕府天文方を駆逐して暦編纂の主導権を握ったにもかかわらず、泰邦を支えた暦学者たちに対してひどい扱いをして軒並み途中で離脱されてしまった(中には、「天文雑話」の西村遠里もいました)といいますから相当なもの。
そんな泰邦50歳の宝暦10(1760)年、天皇から将軍家への宣旨(せんじ)を届ける勅使の任をおおせつかります。この京都から江戸への道程を、泰邦は「東行話説(とうこうのわせつ)」としてまとめます。内容は食通だった泰邦の行く先々での食べ歩き旅行記となっていますが、当時名物とされていたグルメをことごとく貶しまくる毒舌にあふれています。
たとえば桑名名物の白魚は「ドジョウの幽霊みたいで大嫌い」、鞠子宿(現在の静岡市)ではとろろ汁について「味噌が最悪。鼻孔はかぐまいと閉じ、舌は味わうまいと縮み上がるほど」というこきおろしよう。そんな泰邦がわずかにほめたものが、西倉沢(現在の静岡市)のサザエと、もう一つが安倍川で供された名物の安倍川餅。安倍川餅は、自身の崇拝するご先祖様と名が同じことでいたく気に入り、
我が為に 美しく(いしく)も名乗りしあべ川や 豆の粉(こ)の餅 まめの子の旅
「私のために安倍川と名乗るとは殊勝なことだ。豆の粉(きなこ)をまぶした餅、そしてその豆(安倍)の子孫である私の旅。」と、俺サマ全開のご機嫌な歌を詠んでいます。そんな泰邦のキャラがかえって「面白いお公家様の珍道中」として評判になり、写本として出回って、泰邦の大嫌いな江戸で人気を博したという事ですから、なんとも皮肉な人の世の綾というところでしょうか。
人間界がいかに欲と我意にあふれていようと、季節は巡ります。もうしばらくすれば、ウグイスの美しいさえずりが聞こえてくる春ですね。
コウライウグイスの鳴き声