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誰もが名前は知っている志賀直哉ですが、実は驚くほど読まれていないのではないか、という疑念を、長年のファンである筆者は抱いています。それも最近の話ではなく、昭和の時代からそうだったのではないかという疑惑です。もちろん、「城の崎にて」や「小僧の神様」「灰色の月」「清兵衛と瓢箪」などの国語の教科書に載っている短編はともかく、筆者の知るかぎり「暗夜行路」を読破した、という人はいませんでした。文学好きを自認自称する人は、最近タレントなどにも多いのですが、熱い志賀直哉論が語られているのを聞いたことがないばかりか、話題になることすらありません。
古美術・骨董趣味と一見そっけない文体。枯淡の印象が強くて若い人にはともかくとっつき難い印象の志賀文学ですが、実は内容はバラエティに富み、ときにスキャンダラスでもあります。ヒョウタン好きという子供にしては変わった趣味をもつ少年が起こす騒動・顛末を描いた「清兵衛と瓢箪」、山手線の外回りと内回りを乗り間違えてひとまわりしてしまった少年工の他愛ない話と思いきや、悲劇的な内容の「灰色の月」、現代ではもしかしたら書くことすら許されないかもしれない、女児をさらおうという暗い情念を描いた「児を盗む話」、エスニックマイノリティの妻殺しの顛末とその異様な述懐と落ちが衝撃をもたらす「范の犯罪」、「兎」「山鳩」「目白と鵯(ひよ)と蝙蝠(こうもり)」「朝顔」などの晩年の生き物に材を得た味わいのある短編、などなど、食わず嫌いで読まずにいるのはもったいない面白い小説が数多くあります。動物や子供の描写が簡潔にして巧みなのも、志賀直哉の特色です。
とっつきにくいという人には、「菜の花と小娘」から入るのはどうでしょうか。
「世間に発表したもので云えば「網走まで」が私の処女作であるが、それ以前に「或る朝」というものがあり、これが多少ともものになった最初で、これをよく私は処女作として挙げている。更に溯ると、高等科の頃、一人上総の鹿野山に行った時に書いた「菜の花と小娘」を別の意味で処女作と云ってもいいかもしれない。」(「続創作余談」)
と書いている通り、直哉自身が「自分の処女作」文学の出発点としてあげている作品で、もとは若いときに従姉妹のために書いた童話で、のちに改筆して「金の船」に掲載されました。雲雀の胸毛について種が落とされて、村里から離れた山の中でぽつんと咲いている菜の花。焚き木拾いの小娘と出会い、仲間の菜の花がたくさん咲いている麓の村まで連れて行ってと頼みます。かかえられてはこばれるうち「あんたの手が熱いから首がだるくなる」などとわがままを言う菜の花に、小娘はそばをながれる小川に流して下まで連れて行くことに。怖いだの水草がきもちわるいだのと色々と文句をいう菜の花と、そっけなくしながら面倒を見てやる小娘のこまやかで簡潔な描写は、さすがは後の文豪としての才能と力量をうかがわせます。途中で「河童のような顔をした」いぼ蛙に出くわすなどの事件の果てに、無事麓までたどりつけたのでしょうか? 志賀直哉の印象が一変する楽しい作品、是非ご一読を。
とはいえ、やはり志賀直哉が「とっつきにくい」と思われる一番の理由は、大長編「暗夜行路」という難物のせいでしょう。筋立ては、母と祖父との近親相姦や妻のゲス不倫に苦悩する主人公の心境を描いたものなのですが、基本的に私小説家である志賀直哉にとって、「暗夜行路」の時任謙作は作者自身の分身でもあります。その小説の構想も、父との葛藤の産物でした。
「尾の道で此長編を書きつつあつた頃、讃岐へ旅行をして屋島に泊つたとき、寝つかれず、色々と考へてゐる内に、若しかしたら自分は父の子ではなく、祖父の子ではないかしらといふ想像をした。(中略)翌朝起きた時には自身それを如何にも馬鹿々々しく感じたが、私は我孫子で今は用のなくなつた書きかけの長編を想ひながら不図此事を想ひ出し、さういう境遇の主人公にして、それを主人公自身だけ知らずにゐる事から起る色々な苦みを書いてみようと思ひついた。此思ひつきが「時任謙作」から「暗夜行路」への移転となつた。(「続創作余談」)」
直哉の父との確執は、当時社会問題となっていた足尾銅山事件がきっかけでした。幕末、相馬中村藩の藩士であった直哉の祖父直道は、古河財閥の創業者古河市兵衛とともに足尾銅山開発を主導した人物でした。ですから、父の直温(なおはる・総武鉄道の創業者)は、直哉が足尾銅山鉱毒問題にかかわり、批判的な言説を述べることに対して、厳しい叱責と拒絶、抑圧的態度を示しました。
或朝父が、
「貴様は一体そんな事をしていて将来どうするつもりだ」と蔑むように云った。
「貴様のようなヤクザな奴がこの家に生れたのは何の罰かと思う」こんな事を云った。
尚父は私の顔を見るさえ不愉快だとか、私が自家(うち)にいる為に小さい同胞(きょうだい)の教育にも差し支えると云った。(「児を盗む話」)
こうして決定的な対立となった父子は袂を分かち、志賀直哉は一人で広島尾道に転居することになったのでした。父子が和解するのは、そこから十六年後のことでした。その経緯は、中篇「和解」に叙述されています。
ところで「暗夜行路」でもまた直哉の作品の大半を占める「心境小説」でも、主題は常に登場人物が見聞するものの印象、そこから受ける「気分」が執拗に描かれます。その「気分の描写」が面白くてたまらない一部の物好きな読者(筆者もその一人ですが)以外には、退屈で面白みが良く理解できないようです。
志賀直哉の小説を読んで誰でも容易に気づくのは、いたるところに主人公の『気分』が書かれていることだ。中村光夫は、『暗夜行路は主人公の気持ちの中の発展を書いた、と言う意味のことを作者は云っていますが、事実この位、主人公の気持ちだけが徹頭徹尾書かれている小説もないのです』(『志賀直哉』)と書いているが、むろん『暗夜行路』だけではない。ほとんどすべての作品が徹頭徹尾『主人公の気持ち』あるいは気分でつらぬかれているのである。(柄谷行人「私小説の両義性-志賀直哉」)
武者小路実篤は「彼は何処迄も正直に自分の感じを書いた。彼は彼の神経を正直に生かした。彼は自分の神経に忠実だった。他人に対しても、自分の神経を忠実に生かした。」と書いています。これは、大親友である武者小路ならではの正鵠を得た評価だと思います。
そして、この文章から連想できるのは、ネコ。どこまでも自分の気分に忠実で、それでいて信頼した相手には全身をあずけられるネコ。嘘や虚飾のカケラもない正直な心のあり方が、ネコそのものではないのか。また、「城の崎にて」での小動物の描出は、まるでネコがじっと小さな虫や生き物を凝視しているかのような観察眼です。
筆者が限りなく志賀直哉に惹かれ、「かわいい」と思ってしまう(大文豪を「かわいい」というのも失礼かもしれませんが)「志賀直哉はネコに似てる」からかもしれません。
灰色の月・万暦赤絵 (新潮文庫)
清兵衛と瓢箪・網走まで(新潮文庫)
文芸読本 志賀直哉 (河出書房新社)