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「万葉集」には「雨障(つつ)み」という言葉があって、雨の日は基本的にこもっているべきものであったと考えられています。逢引(あいびき)も雨の日にはするべきではないと考えられてきたのです。天からこの世に降るものは、神聖で危険なものであったからです。
そんな信仰もあって平安時代には、「雨」は恋人に会えない、ぼんやりと一人でもの思いするというイメージを伴っていました。
〈つれづれのながめに増(ま)さる涙川 袖のみ濡れて逢うよしもなし〉藤原敏行
この「ながめ」は「長雨」のことで、「眺め」との掛詞になっています。「つれづれ」はすることもできないぼんやりした心理状態を表しますから、恋人にも会えないので、「長雨」をなんとなく「眺め」ているしかしょうがない、ということだったようです。
〈今はただうき身にうき世にありかねて まどうつ雨ぞ友になりぬる〉慈円
物憂(ものう)いので、雨の音が友達になる、といっているのです。雨が続くとなんとなく考え事をしてしまいますね。俳句にも次のようにあります。
〈ありとあるものの梅雨降る音の中〉長谷川素逝
〈梅雨に入るはるかなる世を見つめつつ〉野見山朱鳥
雨が降っているため恋人に会えないので、手紙を書きます。気分はどちらかというと、内省的なものになっていきます。「雨」が「ものを書く」ことを誘いかけるのです。
〈時鳥(ほととぎす)雲居(くもい)のよそに過ぎぬなり 晴れぬ思いのさみだれのころ〉後鳥羽院
〈漏らすなよただ手習とことよせて 書き流しつる水茎(みずくき)の跡〉飛鳥井雅経
まとまった文章などではなく、なんとなく手元の紙にいたずら書きをすることを「手習」といいましたが、物思いにふけりながら、書き流してしまった筆跡を他人には見せないでください、という意味です。「水茎」は筆跡のこと。
このような複数のイメージが重なって、「雨」と「書くこと」が言葉の歴史の中で結びついているのです。
〈おほかたにさみだるるとや思ふらむ 君恋ひわたる今日のながめを〉和泉式部
〈五月雨(さみだれ)にもの思ひおれば時鳥 夜ふかく鳴きていづち行くらむ〉紀友則
〈先頭を駈(か)けゆくわれもそして わが未来も雨脚(あめ)に先取りされつ〉福島泰樹
〈梅雨の雷(らい)何か忘れゐし胸騒ぐ〉加藤楸邨
雨はいろいろなことを思わせます。過去のことだけではなくて、未来のことや何か忘れてしまったことにも思いはめぐります。この先、雨が降った日には、王朝人にならって、メールではなくてハガキを書いてみてはいかがでしょうか。