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あんぱんを生みだしたのは、ご存じ「木村屋総本店」。今から148年前に木村屋の創業者、木村安兵衛が考案しました。
そもそもパンは安土桃山時代(1573~1603年)にポルトガル人宣教師によって伝えられましたが、そのかたくてパサパサした食感は日本人好みとは言い難く、なかなか受け入れられませんでした。
木村安兵衛が東京芝日蔭町(現在の新橋駅前)に文英堂(のちの木村屋総本店)を開業した当時も、蒸したじゃがいもにホップの煮汁と小麦粉を合わせて発酵させた、かたいパンを売り出して、見事失敗。
しかし、安兵衛は諦めませんでした。横浜の外国人居留地でたまたま口にした柔らかいパンをなんとかして再現しようと試行錯誤を重ね、新たな明治という時代が始まったばかりの頃、酒まんじゅうに使う酒種でパンを作って、その中にあんこを包むことを思いつくのです。―― そう、これがあんぱんの誕生であり、明治2(1869年)年の「木村屋総本店」創業となったのです。
酒種を培養した酵母菌でパンを発酵し、あんぱんを作るには10日以上もかかります。手間ひまかけたあんぱんは1個5厘という高値(当時のそば1杯の値段)で売り出されましたが、1日に1万5000個も売れたそうですよ。
あんぱんが誕生してから約6年後、明治天皇に仕えていた山岡鉄舟が銀座で木村屋のあんぱんに出会い、そのあまりの美味しさに驚嘆!
そして、明治8(1875)年4月4日、東京向島の水戸藩下屋敷でお花見をされる天皇皇后両陛下に献上されることになりました。安兵衛とその息子兄弟(英三郎・儀四郎)は、日本的な春を表現しようと吉野山(奈良県)の桜の塩漬けをあんぱんの真ん中に配し、水戸藩下屋敷に届けたのです。
この「桜あんぱん」を天皇皇后両陛下は大変気に入られたそう。「引き続き納めるように」というお言葉を戴いて、以降木村屋の桜あんぱんは宮内庁御用達になりました。
―― このエピソードから、4月4日は「あんぱんの日」になったのです。
明治天皇が召し上がったこの一件もきっかけとなり、木村屋のパンはさらに評判となりました。とはいえ、天皇陛下と同じものでは畏れ多いと、店頭では桜の替わりにケシの実をのせて売り出したそう。明治30(1897)年頃には桜あんぱんも市販されるようになり、「へそぱん」の愛称で親しまれました。
西洋文化が一気に流入した明治当初、文明開化の大きな波の中でパンは日本独自の進化を遂げ庶民に定着していったのでした。
その頃、ちまたでもてはやされた「文明開化の7つ道具」、何のことだと思いますか?
―― 実は「新聞社」「写真絵」「郵便」「瓦斯灯」「展覧会」「蒸気船」「軽気球」「岡蒸気」、そして「あんぱん」なんです。
木村屋の3代目儀四郎は、楽隊を率いて宣伝を行う「広目屋」(2〜5人編成でチンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らしながら地域の商品や店舗などの宣伝を行い、街を練り歩く請負広告業。チンドン屋さんとも呼ばれますね)をいち早く店の宣伝に採用し、そのコマーシャルソングは町中に響きわたるようになりました。
「パン、パン、パン 木村屋パンを ごろうじろ
西洋仕込みの 本場もの
焼きたて 出来たて ほくほくの
木村屋パンを 召し上がれ
文明開化の味がして 寿命がのびる 初物 初物」
現在では、菓子パンの年間生産量は約39万トン。※2011年農水省資料より
そのうち10分の1があんぱん類だとして、1個あたり約30g(小麦粉換算)とすれば年間約13億個のあんぱんが生産されていることになります。つまり、国民一人あたり年間平均約11個……私たちは月イチくらいの頻度であんぱんを食べているわけです。
あんぱんは、なんて身近で、なんて当たり前になったことでしょう。
―― 今日は「あんぱんの日」。銀座にお出かけ中の方であれば、創業148年にわたって味と伝統を守り続けてきた木村屋総本店で、あんぱんを買われるのも素敵ですね。
銀座にいらっしゃらない方ももちろん、明治時代の人々がまぶしい思いで手にしたあんぱんを近くのパン屋さんで購入して、あんぱんが貴重でありがたかった時代に思いを馳せてみては?