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ところで、新選組の記念日には、3月13日の「新選組の日」以外にも2月27日が指定されていることをご存知の方も多いかもしれません。こちらは「新撰組の日」で「選」と「撰」の字が違いますが、同じ新選(撰)組のことです。なぜ二つあるのでしょう。
嘉永六(1853)年、ペリー来航を受けて大老・井伊直弼(いいなおすけ)による日米修交通商条約締結を皮切りにした鎖国からの開国政策は、国内で大きな動揺と反発を生み、将軍後継問題でも火種を抱えていたことから、井伊は1858年から翌年にかけ、吉田松陰など反対派を次々に処罰(安政の大獄)。しかしそれにより対立がさらに激化、元水戸藩士により井伊直弼が暗殺されてしまい(桜田門外の変)、時代は一気に幕末の大流動期に突入します。
それに先がけ、ときの121代孝明天皇の二代前、119代光格天皇より、第62代村上天皇以来900年近く途絶えていた天皇諡号(諡号とは死後に送られるおくり名で、本来『天皇』とは、天に昇った=亡くなった帝のことを指しました)が復活、同時に生前から帝(当時は○○院と呼ばれるのが通例でした)のことを「天皇」と呼び習わすことが提議されて受けいれられるなど、平安末期以来、武家政権の風下に立ち屈従の次代を耐えていた皇室の権威と政治力が急激に見直され始め、幕末の「尊王」思想や運動の素地となり、やがてそれが徳川御三家の副将軍格である水戸藩から急進的な尊皇攘夷論・「水戸学」が発展、やがて天狗党の騒乱を引き起こしました。島崎藤村の「夜明け前」にも描かれた水戸天狗党は鎮圧され、352名もの死罪を出しますが、その中で生き残り、壬生浪士(後の新選組)の初代筆頭局長(巨魁)となったのが芹沢鴨です。
さて、井伊直弼が暗殺され、求心力が急速に失われた幕府は、事態打開のために京都の朝廷との連携(公武合体)によって、反幕府勢力や外国の脅威に対して防御を固めようとします。孝明天皇の妹和宮を14代将軍徳川家茂の御台に迎え、さらに200年ぶりの将軍の上洛が計画されます。
その際、治安が悪化している京都で将軍警護の浪士隊を募ることを上奏したのが庄内藩士の清河八郎でした。清河は忠実な幕臣のふりをしつつ、実は幕府打倒を画策し、暗躍している人物でした。浪士隊も、表向きは将軍の警護といいながら、実は倒幕のためのコマとして使おうとしていたのでした。
この警護隊募集に、当時天然理心流なる実践剣法の四代目宗家となって間もない武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)出身の剣士・近藤勇、その門人であった石田村(現日野市)の土方歳三、天然理心流の若い師範代・沖田総司、北辰一刀流の藤堂平助、神道無念流の永倉新八、種田流槍術の原田左之助、などといった腕に覚えのある面々が応じて続々と集結しました。
「名は浪士とあい唱え候えども、その実義民に御座候。旬日の間に速やかに二百人余りも集まり来たり候も、関東の勇武、いにしえの遺風を見るに足り申し候」とたたえられ、一行は京都を目指して出発します。しかし京都に着き、2月27日「浪士組」が正式に発足したのもつかの間、プランナーでありナビゲーターの清河八郎は正体をあらわし、公家の学問所である学習院付きとなって朝廷のために「尽忠報国、身命を投げ打ち勤王仕り候志」と浪士たちに命じます。そして、生麦事件以来幕府ののど元・横浜港に集結していた英国艦隊を迎え撃つために、再び江戸に戻ると言い出します。将軍を守るためと決起して京都まで来たにもかかわらずの突然の清河の方針転換に、徳川幕府開府以来の御料・多摩地域で過ごした近藤らは反発。こうして3月13日、200余名の浪士隊の大半が江戸に戻るのと分裂、24名は浪士隊を離脱、京都にとどまり治安維持に努めると決します。実質上これが新選組の発足となったため、この日が「新選組の日」と制定されたのでした。
壬生浪士組が着任した文久3年当時の京都は、尊皇攘夷かつ倒幕派の急先鋒、長州藩が政治の実験を握り、幅を利かせていました。最終的にはそうした勢力との衝突・相克が運命付けられていましたが、上方にのぼってきた東国の暴れ者集団は、早々にいくつかの騒動を巻き起こしています。
大阪に出張った芹沢鴨、永倉新八、沖田総司ら8人は、北新地で些細な行きがかりで角棒を手にした力士2~30人と大乱闘となります。壬生浪士たちは抜刀して力士たちを4人殺してしまいました。また、京都の商家「大和屋」が倒幕派の浪士たちに金を融通していることを聞きつけた芹沢鴨は、さっそく大和屋に赴き、自分たちにも金を貸せと難癖をつけ、断ると隊士35名を引き連れて大和屋に押しかけ、土蔵に火をつけ、焼き討ちにしてしまいます。
こうした暴挙で悪名をとどろかせることになる壬生浪士ですが、一方で「八月十八日の政変」と呼ばれる、壬生浪士を預かる会津・薩摩両藩による倒幕派の長州藩勢の京都からの追い出しに加勢。
このとき、会津藩から正式に由緒ある藩主の親衛隊の名称であった「新選組」の隊名を与えられることになったのです。
そして、新選組最大の功績、クライマックスともいえるのが元治元(1864)年の「池田屋事件」です。京都を追い出されたはずの長州藩、肥後藩など倒幕派の藩士たちがひそかに侵入、烈風の日を選んで京都御所の風上で火を放ち、混乱に乗じて京都守護職を討ち取った上で孝明天皇を長州に拉致するという恐るべきクーデター計画を、新選組は事前にキャッチ。倒幕派の会合場所となった池田屋を急襲、新選組34名で13名の倒幕派志士を討ち取って、計画を未然に防ぎました。翌朝、殊勲の新選組は、かつての赤穂浪士にもなぞらえられ、その勇名は天下に響き渡り、新選組には幕府から1000両以上の褒賞が下されたといいます。
その後も「禁門の変」では2000人の長州藩と、「三条制札事件」では土佐藩士たちと戦い功績を挙げた新選組は、相次ぐ内部抗争と鉄のおきてによる粛清も繰り返しました。壬生浪士時代の筆頭局長、つまりリーダーである芹沢鴨も、土方、沖田ら4人の手により暗殺されていますし、討幕派であると嫌疑をかけられた参謀伊東甲子太郎(かしたろう)も惨殺されます。
幕末当時は、尊皇攘夷という大義では一致していながら、倒幕派と佐幕派(幕府・将軍への忠誠を第一とする)の血で血を洗う内紛が繰り返される、疑念と猜疑の渦巻く世界だったのです。
京都では倒幕派、わけても長州藩に打撃を与え、幕府の長州征伐を援けた新選組ですが、対立してきた薩摩藩と長州藩が薩長連合を結び、第二次長州征伐が幕府の敗北に終わり、十四代将軍家茂の死去、公武合体派の孝明天皇の突然の崩御(一説では暗殺とも言われています)、尊皇派の十五代将軍徳川慶喜就任などで慶応二(1866)年にはすっかり様相が一変してしまいました。
慶応三(1867)年の大政奉還の後、岩倉具視らの暗躍により旧幕府方が裏切ったとの報が流れて、戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦いでは新選組は会津藩、桑名藩とともに、次々と幕府方が薩長側に寝返っていく中(当の慶喜自身が大阪から江戸に逃げてしまいます)旧幕府方として戦います。切り込み奮闘を続けながらも敗走を続け、遂に明治元(1868)年、新選組局長、近藤勇は流山で捕縛され、板橋で斬首となります。
「義を取り生を捨るは吾尊ぶところ 快く受けん電光三尺の剣 只将(ただまさ)に君恩に報いん」(義を通して死ぬのは自分の望むところである。快く剣を受けよう。死をもって主君に受けた恩に報いよう)
と辞世の句を残し落命しました。江戸城無血開城のわずか一週間前のことでした。
くだらない刃傷沙汰や内ゲバともいえる身内同士の殺し合いなど、多くの汚名も残る新選組ですが、得なほう、勝ったほうにほとんどの者がつき、信念に殉じる者は稀有なのはいつの時代も同じ。その意味で、幕末の血まみれの動乱の中で、新選組の放ったわずか数年の閃光は、隊旗の「誠」の一文字に恥じない生き様だったからこそ、今もなお多くの人の憧れと共感をひきつけてやまないのでしょう。
参考文献
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書/佐々木克)
歴史人-新選組の真実 (KKベストセラーズ)
陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前