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「春を呼ぶ」といわれる奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」。最初に執り行われたのは今から遡ること1265年前の752年。大仏の開眼供養が行われた年でもあります。以来、東大寺の大伽藍の大半が焼け落ちるような戦禍にあっても、一度も途絶えることなく毎年行われてきました。
「お水取り」はあくまで行中の一部であり、旧暦2月に行われていたため「修二会(しゅにえ)」と呼ばれますが、正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか) 」。二月堂のご本尊である十一面観音の前で、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧たちが、人間がおかしてきたあらゆる過ちを発露(ほつろ)、懺悔(ざんげ)するのです。つまり、私たち人間すべてになり代わって、観音さまに罪を告白して許しを請うという、なんとも頼もしくありがたい法要なのです。
「声明(しょうみょう)」「達陀(だったん)」「五体投地」「走り」など、練行衆によるさまざまな祈りの行法によって罪過を取り除くとともに、「五穀豊穣」「天下泰平」「万民快楽」といった地球上のあらゆる命あるものの幸福を祈願します。この遥か古より続く壮大な法要は、毎年3月1日から14日まで2週間にわたって行われます。
行中は毎夜に松明に火が灯されますが、3月12日にはひときわ大きな松明が上堂します。この巨大な松明は、籠松明(かごたいまつ)とよばれ、直径1メートルで重さは約70キロ!籠松明が二月堂のお堂から外の空間に向かって振り回され、炎が長く尾を引く壮麗な光景は圧巻です。
この日の深夜(13日午前1時半頃)に、二月堂を下ったところにある若狭井(わかさい)という井戸から、本尊の観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式があります。そのため、「修二会」は「お水取り」と呼ばれるようなりました。
ところで、木造の二月堂で毎夜のお松明、火事の心配はないのでしょうか。実は一度、大事件が起こりました。時は江戸時代の1667年、修二会の13日目に達陀の行の残り火から出火して、二月堂が焼失してしまうのです。この時、お務めをしていた練行衆のなかに、後に東大寺の大仏と大仏殿の再興を実現した僧「公慶」がいました。
二月堂が焼け落ちたのは、公慶(こうけい 1648年~1705年)が20歳の時。2度目の練行衆に選ばれた時でした。公慶が東大寺に入ったのは13歳。その時目にしたのは、戦禍により大仏殿の屋根は焼け落ちて雨に打たれる大仏さま。「私には傘があるが、大仏さまには屋根もなく雨ざらしだ」と嘆いた少年時代の公慶。大仏殿の再建は公慶の悲願になりました。さらに追い討ちをかけるように二月堂が焼失。この事件による無念さは、公慶をさらに大仏殿再建への情熱をかき立てる結果となったのです。
1684年、37歳の公慶はついに江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭(いっしはんせん)」を唱えて勧進(寺社・仏像のために寄付を募ること)を進めます。全国にくまなく行脚し、7年後には1万1千両を集金。現在の金額に換算すると、なんと約10億円にのぼりました。1692年には悲願の大仏の修理が完成し、開眼法要を行います。その後も不屈の精神で勧進を続けましたが、大仏殿の落慶を見ることなく江戸の地で57歳の生涯を閉じました。過労死といわれています。
大仏殿が落慶したのは、公慶の没後4年目のことでした。現在、私たちが目にする大仏殿、中門・廻廊・東西楽門は、公慶が命をかけて再建したものなのです。東大寺勧進所内にある公慶堂に安置された公慶像は、頬がこけて左目が赤く充血しています。そのやつれた姿からは相当な苦労が偲ばれますが、視線は力強くまっすぐ前を見据えています。
大仏殿の炎上から100年を経て、朽ち果てた大仏の姿に心を痛めた公慶。その公慶が、1300年を数える歳月のなかでたった一度のお水取りによる火事に遭遇した偶然には、歴史の綾を感じずにはいられません。1265回目の修二会は今夜が最終日。「お水取り」が終わると、古都に春が訪れます。
参考文献
伊藤みろ『心のすみか 奈良』ランダムハウス講談社 2010
参考サイト
華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
奈良ストーリー