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斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年5月14日〜 1953年2月25日)は、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村に生まれました。短歌結社誌『アララギ』の中心人物として活躍した日本を代表する歌人であり、同時に精神科医としても研鑽を積み、東京の大病院の院長という重責も担いました。
幼少期より成績優秀で神童とまでいわれた茂吉ですが、生家である守谷家には進学のための経済的な余裕がありませんでした。そのため15歳のときに、東京・浅草で医院を開業する同郷の医師斎藤紀一の養子候補として上京することなったのです。旅の途中、仙台の旅館ではじめて食した菓子もなかを「こんなうまいものがあるのか!」と驚き、夜に到着した東京・上野駅では、「こんなに明るい夜があるものだろうか!」と驚いたといいます。
こうして、頭脳明晰ながら純朴な茂吉少年は東京の地で勉学に励むことになるのですが、この時はあくまで養子候補。斎藤家としては茂吉が医師になれる目処がついたら養子にしようという程度で、確たる将来が約束されていたわけではなかったのです。
茂吉はこのシビアな現実に打つ勝ち、1910年に東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)を無事卒業、精神病学を学びながら東大医科大学副手となり付属病院に勤務するようになります。正岡子規の影響を受けて伊藤左千夫の門下となっていた茂吉は、すでに歌人としても活動していました。『アララギ』の編集を担当するようになったのもこの頃です。
1913年には処女歌集にして代表作『赤光(しゃっこう)』を刊行。有名な「死にたまふ母」の連作をはじめ、その清新な歌風によって歌壇・文壇に大きな反響を巻き起こすことになるのです。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
1914年4月、茂吉は養父・斎藤紀一の長女で当時19歳だった輝子と結婚、斎藤家の婿養子となります。茂吉の才能を早くから見抜いていた紀一は輝子に、「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたそうです。
この輝子は、後に「猛女」と呼ばれた女性で、父に「なんで男に生まれなかったのか」といわしめたという逸話が残っているほど。輝子は晩年、世界108か国を旅行し79歳で南極に上陸するほどアクティブな女性でした。
輝子は、今でいう「セレブ」。名家の令嬢が集う学習院女学部に通い、女性誌の写真ページには「王者の誇りをもった緋牡丹(ひぼたん)」のキャッチコピーで紹介されています。その名は「ドクトル斎藤紀一氏令嬢輝子」。裕福に育ち、恐れを知らぬ勝ち気なお嬢さまと、質素倹約が常の農村社会で生活していた茂吉。価値観の違いは明らかで、夫婦仲は良いとは言い難く衝突することもしばしばでした。
1933年には、ダンス教師が華族や上流階級の婦人との不倫や集団遊興を繰り広げていたとされる「ダンスホール事件」が発生。この事件では、逮捕されたダンス教師の取り巻きのひとりに輝子がいたことがメディアに報じられる事態になります。茂吉も輝子と警察に呼ばれ、事情聴取を受けることに。
ついに、茂吉の堪忍袋の緒が切れて輝子と別居を決意。以後12年に渡って別れて暮らすことになるのです。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記しています。その後、戦争中に輝子が茂吉の故郷である山形に疎開することになったのを機に1945年から同居を再開します。
二十年つれそひたりわが妻を忘れむとして衢(ちまた)を行くも
輝子は、晩年寝たきりになった茂吉を献身的に看護します。猛女と評されることもある輝子ですが、最後は父親の言葉に従い茂吉に寄り添う日々を過ごしたのです。
輝子と別居の翌年、1934年9月16日に向島百花園で行われた正岡子規忌歌会で、傷心の茂吉の前にひとりの美しい乙女が現れます。
永井ふさ子(1910年9月3日~1993年6月8日)は、愛媛県松山市の出身。永井家は松山藩の御殿医に繋がる家系で父親は医師、正岡子規とも縁戚にありました。美貌と才気あふれるふさ子はこの時24歳。親子ほど年の差のあるふたりは、歌の師と愛弟子という関係を超えて恋に落ちるのです。
すでに頭は薄くなり、初老といっても過言ではない茂吉に訪れた奇跡的な(!?)この恋。敬愛する正岡子規とふさ子の父が幼な友達であることを知ると、茂吉は「ほう、それは因縁が深いな」と言ったそうです。茂吉はこの時、ふさ子との縁を感じていたのかもしれません。
この恋は茂吉の死後10年を経た1963年、ふさ子がに80通にのぼる書簡を雑誌を通して発表するまで秘められたままでした。茂吉はふさ子という愛人の存在が世間に知られるのを恐れ、ひた隠しにしていたのです。茂吉は彼女に、手紙を読んだら必ず燃やすように懇願していました。ふさ子は最初の30通ほどは焼き捨てたものの、その後は焼却せずに保管、大事な文面や歌を手帳に書き留めていたものもありました。
1936年6月1日の茂吉の手紙にある、「ふさ子さんは小生のどういふところがお好きなのですか 小生には不明ですからお仰つて下さい。」という問いに対してのふさ子の返信は下記のような内容です。
「非常に素朴で純粋で、偉い方のようではなくて子供の様なところが好きです、という様なことを書いたとおもう。歌の師としても非常に尊敬していた。歌の添削にしても、たとえ一字だけであっても先生が手を加えられると、その歌がまるで生きてくる様な感じがした。同じ言葉でも先生が使われると、どうしてこうも活き活きとした美しい調べになるのだろうと感嘆せずにいられなかった。」
( 『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』 より)
茂吉の恋心は狂おしいまでに高まっていきます。(下記2通は、なんと手渡しです)
「春あたりまで、気が引けて、醜老身を歎じていましたが、このごろは全く、とりこになつています。」(11月24日書簡より抜粋)
「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。」(11月26日書簡より抜粋)
茂吉の次男で作家の北杜夫は「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」(評伝『茂吉彷徨』より)と記していますが、これに異論はないでしょう。
故郷を後にした15歳の茂吉。もなかを食べて「こんなうまいものがあるのか!」と驚き、たどり着いた東京で「こんなに明るい夜があるものだろうか!」と驚いた茂吉。それから40年の時を経て、ふさ子を前にしてすっかり15歳の少年に戻った茂吉がいます。
ふさ子は茂吉への想いを断ち切るため、婚約しましたが1年後には解消し、独身を通してその生涯を終えました。
茂吉が上句をつくり、ふさ子が下句をつけたふたりの合作の歌が残されています。
光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく
茂吉と「ひとつの息を息づく」その時は、ふさ子にとって永遠のものとなったのでしょうか。ふさ子にとっては、失うものより手にしたものの方が多かったのでしょうか。
矜持を持って生を全うした、茂吉、輝子、そしてふさ子。運命を受け入れる柔軟さと力強さに満ちたその生き方は、これからも輝きを放ち続けることでしょう。