【阪神】吉田義男さん秘話 評論家就任交渉は至難極める マスコミ嫌いになった出来事とは
<吉田義男さんメモリーズ2>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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大阪日刊スポーツは、大物評論家の村山実さんが鬼籍に入って、稲尾和久さんも博多に引っ込むというから“重鎮”を失った。そこで白羽の矢を立てたのが吉田さんだった。
当時の吉田さんはマスコミ嫌いで知られた。甲子園をでるときに雨が降っていたから、番記者に「傘差したろか?」と話すと、翌朝の1面に「吉田監督、傘で刺したろか!」と掲載された。
今では考えられない仕打ちにあったから、マスコミとは距離ができた。吉田事務所の法大出身、選手上がりの室山皓之助さんから「日刊とか、デイリーとか、もう色をつけたくないので評論家はやらない」と突っぱねられた。
初っぱなから門前払いの連続だった。最初は目も合わせてもらえなかった。口説き落とすのは至難だったから、いろんな手を使った。これが最終という日は忘れることができない。
早朝の自宅で紅茶をごちそうになった。吉田さんから「それであんたナンボ(契約金)だしてくれますの」と突っ込まれた。脈ありか? とっさに「吉田さん、ぼくの手を握って『これぐらい』と指を立ててください」と言った。
「あっそう。これでどうですか?」「わかりました。どうぞよろしくお願いいたします」。
これが本紙が大物の吉田さんを客員評論家として迎え入れた瞬間だ。室山さんから「あんたがついてくれるんやな」と念を押された。最後まで男の約束を守って筋を通したつもりだ。
大方のメディアが生前の吉田さんを「やさしい人」と表現する。だが、わたしが接してきた吉田義男は、やさしくもあったが「激しい人」で、野球にはとことん「厳しい人」だった。
球団初の日本一を達成した1985年を語る吉田さんはうれしそうだった。バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発ばかりがクローズアップされるが、センターライン中心の「守りの野球」がはまった。
53年のシーズン併殺「192」は今も日本記録として残っている。監督だった85年の対西武の日本シリーズで成立させた9併殺は、6試合だったシリーズの最多タイ。吉田野球は「守りで攻める」に徹した。
それに川藤、真弓、平田、木戸、中西ら、最近の選手気質では考えられない個性派で、ヤンチャな人材を束ねるのは、本当にご苦労だったに違いない。
妻篤子(とくこ)さんは「うちの人は絶対にグラブを自分の足より下には置きませんでした」という。自宅では必ず床の間の上にグラブを置いた。そしてちょこんと帽子を乗せて布団に入った。すばしっこいプレーで魅了した故人の戒名は「慈照院俊徳義賢居士」で、そこには「俊」の1文字が入った。俊敏だった「今牛若丸」は伝説として語り継がれる。【寺尾博和】