吉田義男氏(2024年11月撮影)

プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。

現役時代は名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若」の異名を取った。監督を務めた85年には21年ぶりのセ・リーグを制する。そして日本シリーズでも西武を倒し、日本一に。阪神を愛した「よっさん」の足跡をたどる。

◆1933年(昭8)7月26日 京都市中京区に生まれる。「幼いころは体が小さかったけど、運動会の障害物競走ではいつも1番でした。障害物をくぐり抜けたりする敏しょう性はあったんでしょうな」。

◆1943年(昭18)=10歳 戦争の影響を受けて母ユキノの故郷、京都・南桑田郡本梅(ほんめ)村に疎開する。

◆1946年(昭21)=13歳 京都市立第二商(のちの西陣商高)に入学し、野球部に入部。「部員は30人ぐらい。強かったんでっせ」。

◆1948年(昭23)=15歳 センバツ決勝で京都一商(現西京高)と対戦。京都二商は0-1で敗れて準優勝。「宿舎の堂島ホテルまで毎日、米運びで行きました。私は球拾いでしたから」。

◆1949年(昭24)=16歳 学制改革で4月から山城高に編入。直後の4月に母ユキノが脳出血で倒れ死去。6月に野球部に入部。同年に薪炭商を営んでいた父正三郎も死去。

◆1950年(昭25)=17歳 夏の京都大会で初優勝。京津大会(後の京滋大会。当時は京都、滋賀から1校が甲子園出場)でも八幡を下して甲子園出場。「1番遊撃」で先発も大会初日に北海に敗戦。「その日のうちに(京都へ)帰りましたわ。僕はヒット1本だけ。それもセーフティーバントでした」。

◆1951年(昭26)=18歳 3年生に上がり主将就任。夏の京都大会は決勝で平安に敗れ、甲子園出場ならなかった。その後阪急から接触があったが断る。

◆1952年(昭27)=19歳 同大への進学を決めたが、山城で2学年先輩の永田郁二氏から強引に立命大へ引っ張られる。「授業料も免除したる、ということで立命館へ行きました。ショートは10人ほどいましたけど、ノックを受けたら、みなよそのポジションへ行ってしまいました」。1年春にレギュラーをつかみ、秋の関西6大学リーグは打率3割1分8厘で打撃5位。その後、阪神の青木一三スカウトから勧誘される。「契約金50万円、月給3万円でお世話になることにしました」と立命大を中退。

◆1953年(昭28)=20歳 プロ1年目。春季キャンプでは二塁争いに参加。オープン戦で30歳の遊撃白坂長栄が肩を負傷し、遊撃に転向してシーズンに突入。128試合に出場し、打率2割6分7厘、守備では38失策。「松木(謙治郎)監督が使い続けてくれたおかげで、失敗しながら覚えていきました」。

◆1954年(昭29)=21歳 2年目は119試合に出場し、打率2割7分3厘。1年目に22個だった盗塁を51個に伸ばし、タイトル獲得。通算13回出場する球宴にも初めて選ばれる。

◆1955年(昭30)=22歳 捕球後のボール所持時間短縮を追究。「セ・リーグの打者のクセや投手との相性も徐々に分かってきましたね。3年目にポコッと(守備の極意を)会得できました」。128試合に出場し、3年目の失策数は26に減少。野球解説者の小西得郎氏に「吉田の守りは牛若丸のようにヒラリヒラリと」と称され“今牛若丸伝説”が始まる。通算9回受賞するベストナインを初めて獲得。日米野球にも出場し、ヤンキースの名将ケーシー・ステンゲル監督から「アメリカに連れて帰りたい」と絶賛される。

◆1959(昭34)=26歳 6月25日、後楽園で天皇皇后両陛下が臨席した巨人との「天覧試合」に1番遊撃で出場。試合は村山実が長嶋茂雄にサヨナラ弾浴びて敗れたが「東の巨人を負かすことが、タテジマに生きた男たちの宿命」と生涯、打倒巨人に燃えた。

◆1962年(昭37)=29歳 プロ10年目。藤本定義監督のもと、15年ぶりのリーグ制覇を成し遂げる。「やっと勝てた」。東映との日本シリーズは2連勝スタートも日本一はならず。「1分け挟んで4つ負けるとは思いもしなかった」。

◆1964年(昭39)=31歳 プロ12年目。藤本監督のもとで2度目のリーグ制覇を達成したが、南海との日本シリーズは敗れる。

◆1969年(昭44)=36歳 プロ17年目はコーチ兼任。11月に後藤次男監督が辞任し、後輩の村山実が兼任監督として就任。協力して次シーズンに臨むつもりが、球団から「お金をやるから身を引いてくれ」と契約更改交渉の席で勧告を受け、現役を引退する。

◆1970年(昭45)=37歳 関西テレビで野球解説者として第2の人生をスタート。篤子夫人と米国に渡り、大リーグを視察するなど国際性を育む。

◆1974年(昭49)=41歳 金田正泰監督の退任を受け、10月に1回目の監督就任が決まる。

◆1975年(昭50)=42歳 監督1年目。ヤンキース監督として世界一を達成したビリー・マーチンに影響を受け、阪神監督で最も若い背番号1で指揮。3位でシーズンを終える。

◆1976年(昭51)=43歳 監督2年目。1月に阪神の江夏豊、望月充と南海の江本孟紀ら4選手の大型トレードを敢行。シーズンは貯金27をつくるも巨人に次ぐ2位でフィニッシュ。

◆1977年(昭52)=44歳 監督3年目。借金8で4位。「勝率5割を守れませんでしたが、実のところ何でやめなアカンねんや? と思っていました」。掛布雅之らを育て、第1次政権が終わる。

◆1984年(昭59)=51歳 監督退任後再び関西テレビで解説をしていたが、秋に2度目の監督就任要請を受けて受諾する。

◆1985年(昭60)=52歳 真弓明信、ランディ・バース、掛布、岡田彰布らを擁し、21年ぶりのリーグ優勝を果たす。広岡達朗監督率いる西武との日本シリーズも4勝2敗で制し、阪神初の日本一監督に輝く。8月12日の日航機墜落事故で球団社長の中野肇が死去。「勝って報いるしかない」との強い覚悟で頂点をつかむ。

◆1987年(昭62)=54歳 86年は勝率5割で3位だったがチーム成績は下降。41勝83敗6分け、勝率3割3分1厘の最下位で監督を退任する。球団は現役時代に17年間背負った背番号23を永久欠番に指定。

◆1989年(平元)=56歳 知人の紹介を受け、フランスのパリ・ユニバーシティ・クラブで野球指導を始める。パリにアパートを購入し、フランス野球の指導に本腰を入れる。

◆1990年(平2)=57歳 フランス野球連盟からナショナルチームの監督に指名される。フランス語の男性の敬称「ムッシュ」が定着する。

◆1992年(平4)=59歳 野球殿堂入りを果たす。

◆1996年(平8)=63歳 秋に日本に一時帰国した際、阪神三好一彦球団社長から3度目の監督就任要請を受け、熟考の末に受諾する。

◆1997年(平9)=64歳 第3次政権1年目。62勝73敗1分けで5位。今岡誠らを積極起用し、前年より1つ順位を上げる。

◆1998年(平10)=65歳 97年オフに中日矢野輝弘(現燿大)&大豊泰昭、関川浩一&久慈照嘉との大型トレードを敢行。52勝83敗で最下位に沈み、2年間の第3次政権を終えた。

◆1999年(平11)=66歳 朝日放送の野球解説者に就任する。

◆2000年(平13)=67歳 日刊スポーツの客員評論家に就任。

◆2001年(平14)=68歳 プロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズ監督に就任。07年まで務める。

◆2010年(平23)=77歳 甲子園球場内にオープンした甲子園歴史館の顧問に就任。

◆2011年(平24)=78歳 フランス野球ソフトボール連盟7人目の名誉会員に選ばれる。日本人では初めて。国際野球連盟(IBAF)の五輪復帰委員会の委員にも任命される。

◆2014年(平27)=81歳 フランス野球ソフトボール連盟が主催する国際大会に「吉田チャレンジ」と命名される。

◆2021年(令3)=87歳 京都野球殿堂入り。阪神でも監督を務めた同郷の野村克也氏とともに顕彰される。

◆2023年(令5)=89歳 監督時代に活躍したランディ・バース氏の野球殿堂入り通知式でゲストスピーチ。岡田監督が復帰1年目の阪神は18年ぶりのリーグ優勝、吉田が率いた85年以来38年ぶりの日本一。「岡田の采配が光った。タイガースを蘇生させてくれた」と愛弟子の雄姿を万感の思いで見届ける。

◆2024年(令6)=90歳 8月1日、甲子園球場開場100周年の記念式典に出席。「甲子園は私の人生です。これからの100年も、野球が繁栄するための球場であってほしい」。同日巨人戦で始球式を務め、万雷の拍手を浴びる。

◆2025年(令7)=91歳 1月15日、球団創立90周年を記念して甲子園球場に「吉田義男シート」を設置すると発表。シーズン全試合に2組4人を一塁側アイビーシートに招待するプランで「ファンの方にご恩返しがしたかった」と感謝を明かす。2月3日、91年の生涯に幕を閉じる。

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 元阪神の吉田義男さん91歳死去「今牛若丸」「ムッシュ」「よっさん」阪神に捧げた足跡たどる